夏目漱石「吾輩は猫である」78

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 この時吾輩は蹲踞(うずく)まりながら考えた。陰士は勝手から茶の間の方面へ向けて出現するのであろうか、または左へ折れ玄関を通過して書斎へと抜けるであろうか。――足音は襖(ふすま)の音と共に椽側(えんがわ)へ出た。陰士はいよいよ書斎へ這入(はい)った。それぎり音も沙汰(さた)もない。

 吾輩はこの間(ま)に早く主人夫婦を起して遣(や)りたいものだと漸く気が付いたが、さてどうしたら起きるやら、一向要領を得ん考のみが頭の中に水車(みずぐるま)の勢(いきおい)で廻転するのみで、何らの分別も出ない。布団の裾を啣(くわ)えて振って見たらと思って、二、三度遣って見たが少しも効用がない。冷たい鼻を頰(ほお)に擦(す)り付けたらと思って、主人の顔の先へ持って行ったら、主人は眠ったまま、手をうんと延ばして、吾輩の鼻づらを否(い)やというほど突き飛ばした。鼻は猫にとっても急所である。痛む事夥(おびただ)しい。此度(こんど)は仕方がないからにゃーにゃーと二返ばかり鳴いて起こそうとしたが、どういうものかこの時ばかりは咽喉(のど)に物が痞(つか)えて思うような声が出ない。やっとの思いで渋りながら低い奴を少々出すと驚いた。肝心の主人は覚(さ)める気色もないのに突然陰士の足音がし出した。ミチリミチリと椽側を伝って近づいて来る。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だと諦(あき)らめて、襖と柳行李(やなぎごうり)の間にしばしの間身を忍ばせて動静を窺(うか)がう。

 陰士の足音は寝室の障子の前…

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