夏目漱石「吾輩は猫である」77

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 細君は乳呑児(ちのみご)を一尺ばかり先へ放り出して口を開(あ)いていびきをかいて枕を外(はず)している。凡(およ)そ人間において何が見苦しいといって口を開けて寐るほどの不体裁はあるまいと思う。猫などは生涯こんな恥をかいた事がない。元来口は音を出すため鼻は空気を吐呑(とどん)するための道具である。尤(もっと)も北の方へ行くと人間が無精になってなるべく口をあくまいと倹約をする結果鼻で言語を使うようなズーズーもあるが、鼻を閉塞(へいそく)して口ばかりで呼吸の用を弁じているのはズーズーよりも見ともないと思う。第一天井から鼠の糞(ふん)でも落ちた時危険である。

 小供の方はと見るとこれも親に劣らぬ体たらくで寝そべっている。姉のとん子は、姉の権利はこんなものだといわぬばかりにうんと右の手を延ばして妹の耳の上へのせている。妹のすん子はその復讐(ふくしゅう)に姉の腹の上に片足をあげて踏反(ふんぞ)り返っている。双方とも寐た時の姿勢より九十度は慥(たし)かに廻転している。しかもこの不自然なる姿勢を維持しつつ両人とも不平もいわず大人(おと)なしく熟睡している。

 さすがに春の燈火(ともしび…

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