夏目漱石「吾輩は猫である」76

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     五

 二十四時間の出来事を洩(も)れなく書いて、洩れなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう、いくら写生文を鼓吹する吾輩(わがはい)でもこれは到底猫の企て及ぶべからざる芸当と自白せざるを得ない。従って如何(いか)に吾輩の主人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行を弄(ろう)するにもかかわらず逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのは甚(はなは)だ遺憾である。遺憾ではあるがやむをえない。休養は猫といえども必要である。鈴木君と迷亭君の帰ったあとは木枯しのはたと吹き息(や)んで、しんしんと降る雪の夜(よ)の如く静かになった。主人は例の如く書斎へ引き籠(こも)る。小供は六畳の間へ枕をならべて寐(ね)る。一間半の襖(ふすま)を隔てて南向の室(へや)には細君が数え年三つになる、めん子さんと添乳(そえぢ)して横になる。花曇りに暮れを急いだ日は疾(と)く落ちて、表を通る駒下駄(こまげた)の音さえ手に取るように茶の間へ響く。隣町(となりちょう)の下宿で明笛(みんてき)を吹くのが絶えたり続いたりして眠い耳底(じてい)に折々鈍い刺激を与える。外面(そと)は大方朧(おぼろ)であろう。晩餐(ばんさん)に半ぺんの煮汁(だし)で鮑貝(あわびがい)をからにした腹ではどうしても休養が必要である。

 ほのかに承われば世間には猫…

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