夏目漱石「吾輩は猫である」61

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 忍び込む度が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然金田君一家の事情が見たくもない吾輩の眼に映じて覚えたくもない吾輩の脳裏に印象を留(とど)むるに至るのはやむをえない。鼻子夫人が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけ拭(ふ)く事や、富子令嬢が阿倍川餅(あべかわもち)をむやみに召し上がらるる事や、それから金田君自身が――金田君は妻君に似合わず鼻の低い男である。単に鼻のみではない、顔全体が低い。小供の時分喧嘩(けんか)をして、餓鬼大将のために頸筋(くびすじ)を捉(つら)まえられて、うんと精一杯に土塀(どべい)へ圧(お)し付けられた時の顔が四十年後の今日(こんにち)まで、因果をなしておりはせぬかと怪まるる位平坦(へいたん)な顔である。至極穏かで危険のない顔には相違ないが、何となく変化に乏しい。いくら怒(おこ)っても平(たいら)かな顔である。――その金田君が鮪(まぐろ)の刺身を食って自分で自分の禿頭(はげあたま)をぴちゃぴちゃ叩く事や、それから顔が低いばかりでなく脊(せい)が低いので、むやみに高い帽子と高い下駄(げた)を穿(は)く事や、それを車夫が可笑(おか)しがって書生に話す事や、書生がなるほど君の観察は機敏だと感心する事や、――一々数え切れない。

 近頃は勝手口の横を庭へ通り抜けて、築山(つきやま)の陰から向うを見渡して障子が立て切って物静かであるなと見極めがつくと、徐々(そろそろ)上り込む。もし人声が賑(にぎや)かであるか、座敷から見透かさるる恐れがあると思えば池を東へ廻って雪隠(せっちん)の横から知らぬ間(ま)に椽(えん)の下へ出る。悪い事をした覚(おぼえ)はないから何も隠れる事も、恐れる事もないのだが、そこが人間という無法者に逢(あ)っては不運と諦(あきら)めるより仕方がないので、もし世間が熊坂(くまさか)長範(ちょうはん)ばかりになったら如何なる盛徳の君子もやはり吾輩のような態度に出(い)づるであろう。金田君は堂々たる実業家であるから固(もと)より熊坂長範のように五尺三寸を振り廻す気遣(きづかい)はあるまいが、承るところによれば人を人と思わぬ病気があるそうである。人を人と思わない位なら猫を猫とも思うまい。して見れば猫たるものは如何なる盛徳の猫でも彼の邸内で決して油断は出来ぬ訳である。しかしその油断の出来ぬ所が吾輩にはちょっと面白いので、吾輩がかくまでに金田家の門を出入(しゅつにゅう)するのも、ただこの危険が冒して見たいばかりかも知れぬ。それは追って篤(とく)と考えた上、猫の脳裏を残りなく解剖し得た時改めて御吹聴(ごふいちょう)仕(つかまつ)ろう。

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 今日はどんな模様だなと、例…

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