(ナガサキノート)「生かされた」沖縄移住後も祈り続け

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野崎健太・43歳
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平良明美さん(1934年生まれ)

 平良明美(たいらあけみ)さん(81)=那覇市=には、心にとげのように刺さっている記憶がある。10歳のときのことだ。原爆で父と姉を亡くし、長崎市目覚町にあった自宅も失った平良さんは終戦直後、旧三重村(現長崎市)の母中村(なかむら)ツネさんの実家に身を寄せていた。ツネさんは原爆の放射線が原因とみられる症状で、日に日に衰えていた。蚊帳の中に敷いた布団で横になるツネさんの枕元で、平良さんはじっと母親を見守っていた。くしでツネさんの髪をといてあげると、ごっそりと毛が抜けた。

 あるとき、母屋の外にあるトイレに連れて行こうとツネさんに肩を貸した。だが、弱っていたツネさんは庭に倒れ込み、平良さんもつられて倒れた。子どもの力では支えられなかった。ツネさんは駆けつけた親族に介抱されたが、翌日、息を引き取った。原爆投下から3週間後のことだ。「あの時、お母さんの命を縮めてしまったのではないか」。結婚して沖縄県に移り住んだ後もずっと、そんな気持ちが消えないでいる。

 平良さんは、父中村重市(なかむらじゅういち)さん、母ツネさんの間に5人きょうだいの4人目として生まれ、長崎市岡町に暮らしていた。家のすぐ近くには長崎刑務所浦上刑務支所があり、縄につながれた受刑者が連行されるのを見た記憶がある。爆心地の間近で、支所跡は現在、平和公園になっている。

 病気がちな重市さんに代わり、ツネさんが土木作業などをして働き、家は貧しかった。山里国民学校(現山里小)に通うときの制服は姉のお下がり。学校での一番の思い出は、配給の上履きをもらったことだ。うれしくて、汚れると丁寧に洗って大事にはいた。

 1945年の春、平良さんらきょうだいは空襲を避け、ツネさんの実家のある旧三重村(現長崎市)に疎開。原爆投下の1カ月ほど前には、両親が岡町から同市目覚町(爆心地の南約1キロ)に転居し、学校が夏休みに入った平良さんも疎開先から家族の元に戻っていた。「(より爆心地に近い)岡町で原爆にあっていたら、私も命はなかったでしょう」

 45年8月9日。平良さんは、近所の防空壕(ごう)掘りにかり出された両親に連れられ、4歳だった妹恵仁子(えにこ)さんと4人で壕に出かけた。だが、電球に誰かのツルハシが当たって割れ、壕は真っ暗に。作業は中止になった。「あのまま原爆の時まで壕にいたら、父も母も助かったのに」と平良さんは思う。

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 その後、父重市さんは知り合…

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