寿司とピョン吉と私(小原篤のアニマゲ丼)

有料記事

[PR]

 「私の父は、ピョン吉に殺され、ピョン吉に救われた。」という帯文が衝撃的なマンガ「ど根性ガエルの娘」第1巻(KADOKAWA)が、昨年11月に出ました。作者は、「ギャラクシーエンジェル」のキャラクター原案とコミック版の作画を担当したことでも知られる大月悠祐子さん。その父は、言わずと知れたマンガ「ど根性ガエル」(1970~76年、週刊少年ジャンプ連載)作者・吉沢やすみさん。72~74年放送のアニメも大人気で、主人公ひろしのシャツにはりついた平面ガエルのピョン吉は国民的キャラクターとなりますが、吉沢さんは連載終了後に極度のスランプに陥り、ついに82年、13本の未完成原稿と妻子を残し失踪、ボロボロになって帰宅した後も仕事はせずギャンブルにのめり込み……。

 その赤裸々な顚末(てんまつ)を、吉沢さんのデビューの頃や現在の平和な吉沢家の様子を織り交ぜつつ娘の目から描いたのが「ど根性ガエルの娘」です。出来事はシビアですが筆致は温かくユーモラス。特に、当時の編集長が20歳かそこらの吉沢さんに、連載開始のため10本描きためせよと指示し「キミ、まだだろう! 連載準備ができたらね、ご褒美に大人のそういうお店に連れていってあげよう…!」と約束してヤル気を(いろんな意味で)出させる場面は秀逸。「をを、これが真のジャンプシステムか!」(←違う)と興奮しました。

 そんなこんなで吉沢さんに興味が湧いたところへ、東京都練馬区石神井公園ふるさと文化館分室特別展「作家と動物」に合わせて吉沢さんが「ピョン吉と私」と題して講演をするというお知らせをいただき、取材してきました。1950年、山梨生まれの吉沢さんは練馬区在住で、「ど根性ガエル」の舞台はお住まいの石神井あたりがモデルになっているそうです。講演は6月11日に練馬区勤労福祉会館で行われました。

 「僕は今66歳で、20歳のとき初めて描いたマンガが『ど根性ガエル』でした。僕の家は母子家庭で、小説好きのお袋が貸本屋で僕と4歳下の弟のためによくマンガを借りてきてくれました。それでマンガが好きになって、中学を卒業したらすぐ東京へ出てマンガ家になるつもりでした。でもお袋がどうしても高校へ行けと言うんでしぶしぶ行きましたが、思い返すと高校の3年は本当に役に立ちました。印刷された自分の絵が見たいと新聞部へ入り、高2の夏休みにマンガ家を訪ねて記事にするという理由で東京までの旅費を出してもらって、行った先は赤塚不二夫先生、石ノ森章太郎先生、そして、師匠になる貝塚ひろし先生でした」

 「持っていった絵を貝塚先生に見せると『来年の夏1カ月バイトしないか?』。ラッキーですよね。自分は学園祭でマンガを展示したり、旺文社の雑誌に投稿が載ったりして、天狗(てんぐ)になっていたけど、先生の仕事場でその鼻をへし折られました。ただ斜線を引くにしてもアシスタントの先輩たちはみんなめちゃくちゃうまくて。バイトが終わったら先生が『就職決まってないならウチ来るか?』。ラッキーですよね。でも正直、使い物にならないアシスタントだったなと思います。ギャグマンガをやるなら早く自分のマンガを1本描けと先生に言われ、3カ月くらいかけて初めて読み切りのマンガを描いた。それが『ど根性ガエル』でした」

 「よく聞かれるんです、『どうやって思いついたんですか?』って。正直に言うと、あんまり考えてなかった。主人公の男の子がいて、ここ(シャツの胸)にペットか何かがいてしゃべったら面白いな、とそのくらい。カエルにしたのは、かわいいし描きやすいから。小さなコマにも描かなきゃならないから単純な線のキャラクターの方がいいんです。それにカエルには、子どものころ田舎でいろいろヒドイことをしましたからね。前は石神井公園にもたくさんいましたよね。公園にはおっかない野生のニワトリもいて、ウチの犬が追いかけられたりもしましたけど」

 「主人公を『ひろし』にした…

この記事は有料記事です。残り2039文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら