夏目漱石「吾輩は猫である」59

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 寒月君は力学という語を聞いてまたにやにやする。「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシングの黄金律を失しているという事なんで、それを厳格に力学上の公式から演繹(えんえき)して御覧に入れようというのであります。先ずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交叉(こうさ)より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大抵お分りになりましたか。……」「分るものか」と主人がいう。「寒月君はどうだい」「私にもちと分りかねますな」「そりゃ困ったな。苦沙弥はとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった甲斐がないのだが――まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう」「結論があるか」と主人が不思議そうに聞く。「当り前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ、――いいか両君能(よ)く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌(さんしゃく)して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪(ついばい)して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくの如く身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時(なんどき)気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれの如く、咄嗟(とっさ)の間(かん)に膨脹(ぼうちょう)するかも知れません、それ故にこの御婚儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今の中(うち)御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御主人は無論の事、そこに寐ておらるる猫又殿にも御異存はなかろうと存じます」主人は漸々(ようよう)起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が貰うものか。寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張する。吾輩も聊(いささ)か賛成の意を表するためににゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」「ハハハハハ艶罪という訳だ」主人だけは大(おおい)にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌(ろく)な者でないに極ってらあ。初めて人のうちへ来ておれを遣り込めに掛った奴だ。傲慢な奴だ」と独りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三、四人が「ワハハハハハ」という声がする。一人が「高慢ちきな唐変木(とうへんぼく)だ」というと一人が「もっと大きな家(うち)へ這入りてえだろう」という。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶(かげべんけい)だ」と大きな声をする。主人は椽側(えんがわ)へ出て負けないような声で「八釜(やかま)しい、何だわざわざそんな塀(へい)の下へ来て」と怒鳴る。「ワハハハハハサヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだ」と口々に罵(のの)しる。主人は大に逆鱗(げきりん)の体(てい)で突然起(た)ってステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手を拍(う)って「面白い、やれやれ」という。寒月は羽織の紐を撚(ひね)ってにやにやする。吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に主人が手持無沙汰(てもちぶさた)にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと狐に抓(つま)まれた体である。

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 【ツァイシング】ツァイジン…

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