夏目漱石「吾輩は猫である」56

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 「……水島寒月さんの事で御用があるんだそうで御座います」と小間使は気を利かして機嫌を直そうとする。「寒月でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、糸瓜(へちま)が戸迷(とまど)いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐(あわ)れなる寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ束髪に結(い)ったの」小間使はほっと一息ついて「今日(こんにち)」となるべく単簡な挨拶をする。「生意気だねえ、小間使のくせに」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい半襟を掛けたじゃないか」「へえ、先達て御嬢様から頂きましたので、結構過ぎて勿体ないと思って行李(こうり)の中へしまって置きましたが、今までのが余り汚れましたからかけ易(か)えました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶(うぐいすちゃ)へ相撲の番附を染め出したので御座います。妾(あた)しには地味過ぎていやだから御前に上げようと仰っしゃった、あれで御座います」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものを、何故だまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、その位似合うなら、妾しにだって可笑(おか)しい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってるくせに何故黙っているんだい。そうして済して掛けているんだよ、人の悪い」剣突は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「富子(とみこ)や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむをえず「はい」と電話室を出て行く。吾輩より少し大きな狆(ちん)が顔の中心に眼と口を引き集めたような面(かお)をして付いて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで主人の家に帰る。探険は先ず十二分の成蹟(せいせき)である。

 帰って見ると、奇麗な家(うち)から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い洞窟(どうくつ)の中へ入り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、襖、障子の具合などには眼も留らなかったが、わが住居(すまい)の下等なるを感ずると同時にかのいわゆる月並が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。吾輩も少し変だと思って、例の尻尾に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から御託宣があった。座敷へ這入って見ると驚いたのは迷亭先生まだ帰らない、巻煙草の吸い殻を蜂(はち)の巣の如く火鉢の中へ突き立てて、大胡坐(おおあぐら)で何か話し立てている。いつの間にか寒月君さえ来ている。主人は手枕(てまくら)をして天井の雨洩(あまもり)を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民の会合である。

 「寒月君、君の事を譫語(う…

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