夏目漱石「吾輩は猫である」55

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 金田君はなお語をついで、「あいつは英語の教師かい」と聞く。「はあ、車屋の神さんの話では英語のリードルか何か専門に教えるんだっていいます」「どうせ碌(ろく)な教師じゃあるめえ」あるめえにも尠(すく)なからず感心した。「この間ピン助に遇(あ)ったら、私の学校にゃ妙な奴がおります。生徒から先生番茶は英語で何といいますと聞かれて、番茶はsavage teaであると真面目に答えたんで、教員間の物笑いとなっています、どうもあんな教員があるから、ほかのものの、迷惑になって困りますといったが、大方あいつの事だぜ」「あいつに極っていまさあ、そんな事をいいそうな面構えですよ、いやに髭(ひげ)なんか生やして」「怪(け)しからん奴だ」髭を生やして怪しからなければ猫などは一疋だって怪しかりようがない。「それにあの迷亭とか、へべれけとかいう奴は、まあ何てえ、頓狂な跳返(はねっかえ)りなんでしょう、伯父の牧山男爵だなんて、あんな顔に男爵の伯父なんざ、あるはずがないと思ったんですもの」「御前がどこの馬の骨だか分らんものの言う事を真(ま)に受けるのも悪い」「悪いって、あんまり人を馬鹿にし過ぎるじゃありませんか」と大変残念そうである。不思議な事には寒月君の事は一言半句(いちごんはんく)も出ない。吾輩の忍んで来る前に評判記は済んだものか、または既に落第と事が極って念頭にないものか、その辺は懸念もあるが仕方がない。しばらく佇(たたず)んでいると廊下を隔てて向うの座敷でベルの音がする。そらあすこにも何か事がある。後(おく)れぬ先に、とその方角へ歩を向ける。

 来て見ると女が独りで何か大声で話している。その声が鼻子とよく似ている所を以て推(お)すと、これが即ち当家の令嬢寒月君をして未遂入水(じゅすい)を敢てせしめたる代物(しろもの)だろう。惜哉(おしいかな)障子越しで玉の御姿(おんすがた)を拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒い所などを綜合して考えて見ると、満更人の注意を惹(ひ)かぬ獅鼻(ししばな)とも思われない。女はしきりに喋舌(しゃべ)っているが相手の声が少しも聞えないのは、噂(うわさ)にきく電話というものであろう。「御前は大和(やまと)かい。明日(あした)ね、行くんだからね、鶉(うずら)の三を取って置いて御くれ、いいかえ――分ったかい。――なに分らない?おやいやだ。鶉の三を取るんだよ。――なんだって、――取れない? 取れないはずはない、とるんだよ――ヘヘヘヘヘ御冗談をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人を御ひゃらかすよ。全体御前は誰だい。長吉(ちょうきち)だ? 長吉なんぞじゃ訳が分らない。お神さんに電話口へ出ろって御いいな――なに? 私(わたく)しで何でも弁じます?――お前は失敬だよ。妾(あた)しを誰だか知ってるのかい。金田だよ。――ヘヘヘヘヘ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。――金田だってえばさ。――なに?――毎度御贔屓(ごひいき)にあずかりましてありがとう御座います?――何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。御前はよっぽど愚物だね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御いいなさいな」電話は長吉の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は癇癪(かんしゃく)を起してやけにベルをジャラジャラと廻す。足元で狆(ちん)が驚ろいて急に吠(ほ)え出す。これは迂闊に出来ないと、急に飛び下りて椽(えん)の下へもぐり込む。

 折から廊下を近(ちかづ)く…

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