夏目漱石「吾輩は猫である」53

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 人の許諾を経ずして吾妻橋事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍ばして、その報道を得々として逢う人に吹聴する以上は、車夫、馬丁、無頼漢、ごろつき書生、日雇婆(ひやといばばあ)、産婆、妖婆(ようば)、按摩(あんま)、頓馬(とんま)に至るまでを使用して国家有用の材に煩を及ぼして顧みざる以上は――猫にも覚悟がある。幸い天気も好(い)い、霜解(しもどけ)は少々閉口するが道のためには一命もすてる。足の裏へ泥が着いて、椽側へ梅の花の印を押す位な事は、ただ御三(おさん)の迷惑にはなるか知れんが、吾輩の苦痛とは申されない。翌日(あす)ともいわずこれから出掛けようと勇猛精進の大決心を起して台所まで飛んで出たが「待てよ」と考えた。吾輩は猫として進化の極度に達しているのみならず、脳力の発達においては敢て中学の三年生に劣らざるつもりであるが、悲しいかな咽喉(のど)の構造だけはどこまでも猫なので人間の言語が饒舌(しゃべ)れない。よし首尾よく金田邸へ忍び込んで、充分敵の情勢を見届けたところで、肝心の寒月君に教えてやる訳に行かない。主人にも迷亭先生にも話せない。話せないとすれば土中にある金剛石(ダイヤモンド)の日を受けて光らぬと同じ事で、切角の智識も無用の長物となる。これは愚(ぐ)だ、やめようかしらんと上り口で佇(たたず)んで見た。

 しかし一度思い立った事を中途でやめるのは、白雨(ゆうだち)が来るかと待っている時黒雲とも隣国へ通り過ぎたように、何となく残り惜(おし)い。それも非がこっちにあれば格別だが、いわゆる正義のため、人道のためなら、たとい無駄(むだ)死(じに)をやるまでも進むのが、義務を知る男児の本懐であろう。無駄骨を折り、無駄足を汚(よご)す位は猫として適当のところである。猫と生れた因果で寒月、迷亭、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭に相互の思想を交換する技倆(ぎりょう)はないが、猫だけに忍びの術は諸先生より達者である。他人の出来ぬ事を成就するのはそれ自身において愉快である。われ一箇でも、金田の内幕を知るのは、誰も知らぬより愉快である。人に告げられんでも人に知られているなという自覚を彼らに与うるだけが愉快である。こんなに愉快が続々出て来ては行かずにはいられない。やはり行く事に致そう。

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 向う横町へ来て見ると、聞い…

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