夏目漱石「吾輩は猫である」50
「この天女は御気に入りませんか」と迷亭がまた一枚出す。見ると天女が羽衣(はごろも)を着て琵琶(びわ)を弾(ひ)いている。「この天女の鼻が少し小さ過ぎるようですが」「何、それが人並ですよ、鼻より文句を読んで御覧なさい」文句にはこうある。「昔しある所に一人の天文学者がありました。ある夜(よ)いつものように高い台に登って、一心に星を見ていますと、空に美しい天女が現われ、この世では聞かれぬほどの微妙な音楽を奏し出したので、天文学者は身に沁(し)む寒さも忘れて聞き惚(ほ)れてしまいました。朝見るとその天文学者の死骸(しがい)に霜が真白に降っていました。これは本当の噺(はなし)だと、あのうそつきの爺(じい)やが申しました」「何の事ですこりゃ、意味も何もないじゃありませんか、これでも理学士で通るんですかね。ちっと『文芸倶楽部(ぶんげいクラブ)』でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君散々にやられる。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟(ほかけぶね)が印刷してあって、例の如くその下に何か書き散らしてある。「よべの泊りの十六小女郎(こじょろ)、親がないとて、荒磯(ありそ)の千鳥、さよの寐覚(ねざめ)の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何(いかが)です」と迷亭はむやみに出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮(やぼ)でないんだという事は分りましたから」と一人で合点(がてん)している。鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問をおえたものと見えて、「これは甚だ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手な要求をする。寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないという方針と見える。迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人(ふたり)が席へ返るや否や迷亭が「ありゃ何だい」というと主人も「ありゃあ何だい」と双方から同じ問(とい)をかける。奥の部屋で細君が怺(こら)え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並(つきなみ)の標本が来ましたぜ。月並もあの位になるとなかなか振(ふる)っていますなあ。さあ遠慮は入(い)らんから、存分御笑いなさい」
主人は不満な口気(こうき)で「第一気に喰わん顔だ」と悪(にく)らしそうにいうと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って乙に構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫脊(ねこぜ)だね。猫脊の鼻は、ちと奇抜過ぎる」と面白そうに笑う。「夫を剋(こく)する顔だ」と主人はなお口惜(くや)しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝(たなざら)しに逢うという相だ」と迷亭は妙な事ばかりいう。ところへ妻君が奥の間から出て来て、女だけに「あんまり悪口を仰っしゃると、また車屋の神さんにいつけられますよ」と注意する。「少しいつける方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴(ざんそ)などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり苛(ひど)いわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌(ようぼう)も間接に弁護して置く。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、大分引き搔かれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋位に心得ているのさ。ああいう人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になって置かんのが君の不了見(ふりょうけん)さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君を顧みる。
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