夏目漱石「吾輩は猫である」45

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 「それからどうした」と主人は遂に釣り込まれる。「独逸人が大鷹源吾(おおたかげんご)の蒔絵(まきえ)の印籠(いんろう)を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時東風の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の君子ばかりだから到底駄目だといったんだとさ。その辺は大分景気がよかったが、それから独逸人の方では恰好(かっこう)な通弁を得たつもりで頻(しきり)に聞くそうだ」「何を?」「それがさ、何だか分る位なら心配はないんだが、早口でむやみに問い掛(かけ)るものだから少しも要領を得ないのさ。たまに分るかと思うと鳶口(とびぐち)や掛矢の事を聞かれる。西洋の鳶口や掛矢は先生何と翻訳して善(い)いのか習った事がないんだから弱わらあね」「尤もだ」と主人は教師の身の上に引き較べて同情を表する。「ところへ閑人(ひまじん)が物珍しそうにぽつぽつ集ってくる。しまいには東風と独逸人を四方から取り巻いて見物する。東風は顔を赤くしてへどもどする。初めの勢に引き易(か)えて先生大弱りの体(てい)さ」「結局どうなったんだい」「しまいに東風が我慢出来なくなったと見えてさいならと日本語でいってぐんぐん帰って来たそうだ、さいならは少し変だ君の国ではさよならをさいならというかって聞いて見たら何やっぱりさよならですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいならにしたんだって、東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」「さいならはいいが西洋人はどうした」「西洋人はあっけに取られて茫然(ぼうぜん)と見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか」「別段面白い事もないようだ、それをわざわざ報知(しらせ)に来る君の方がよっぽど面白いぜ」と主人は巻(まき)烟草(タバコ)の灰を火桶(ひおけ)の中へはたき落す。折から格子戸(こうしど)のベルが飛び上るほど鳴って「御免なさい」と鋭どい女の声がする。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。

 主人のうちへ女客は稀有(けう)だなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は縮緬(ちりめん)の二枚重ねを畳へ擦(す)り付けながら這入って来る。年は四十の上を少し超した位だろう。抜け上った生え際(ぎわ)から前髪が堤防工事のように高く聳(そび)えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切(き)り通(どお)しの坂位な勾配(こうばい)で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。直線とは鯨より細いという形容である。鼻だけはむやみに大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社の石燈籠(いしどうろう)を移した時の如く、独りで幅を利(き)かしているが、何となく落ち付かない。その鼻はいわゆる鍵鼻(かぎばな)で、ひと度(たび)は精一杯高くなって見たが、これでは余(あんま)りだと中途から謙遜(けんそん)して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を覗(のぞ)き込んでいる。かく著るしい鼻だから、この女が物をいうときは口が物を言うといわんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶつもりである。鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な御(お)住居(すまい)ですこと」と座敷中を睨(にら)め廻わす。主人は「噓(うそ)をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか烟草をふかす。迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨(あま)洩(も)りか、板の木目(もくめ)か、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促がす。「無論雨の洩りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭が済ましていう。鼻子は社交を知らぬ人たちだと腹の中で憤る。しばらくは三人鼎坐(ていざ)のまま無言である。

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