夏目漱石「吾輩は猫である」38

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 「足りんはずはない、医者へも薬礼(やくれい)は済ましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」と済して抜き取った鼻毛を天下の奇観の如く眺(なが)めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭(パン)を御食べになったり、ジャムを御舐(おな)めになるものですから」「元来ジャムを幾缶舐めたのかい」「今月は八つ入(い)りましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五、六円位なものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本々々丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てた如くに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体(てい)で、ふっと吹いて見る。粘着力が強いので決して飛ばない。「いやに頑固(がんこ)だな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、外に買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大(おおい)に不平な気色(けしき)を両頰に漲(みなぎ)らす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交(まじ)る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開(あ)くほど眺めていた主人は指の股(また)へ挟(はさ)んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪(しらが)だ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入(はい)る、経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士に取り懸(かか)る。

 鼻毛で妻君を追払った主人は、先ずこれで安心といわぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦(あせ)る体であるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食うも蛇足だ、割愛しよう」と遂(つい)にこの句も抹殺(まっさつ)する。「香一炷もあまり唐突だからやめろ」と惜気(おしげ)もなく筆誅(ひっちゅう)する。余すところは「天然居士は空間を研究し『論語』を読む人である」という一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃(おはい)しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮(ふる)って原稿紙の上へ下手(へた)な文人画の蘭(らん)を勢よくかく。切角の苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究(きわ)め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫(ああ)」と意味不明な語を連ねている所へ例の如く迷亭が這入って来る。迷亭は人の家(うち)も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞(こ)わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然(ひょうぜん)と舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼(きがね)、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。

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 「また巨人引力かね」と立っ…

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