夏目漱石「吾輩は猫である」23

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 主人は存外真面目である。「それで朗読家は君の外にどんな人が加(くわわ)ったんですか」「色々おりました。花魁が法学士のK君でしたが、口髯(くちひげ)を生(は)やして、女の甘ったるいせりふを使かうのですからちょっと妙でした。それにその花魁が癪(しゃく)を起す所があるので……」「朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか」と主人は心配そうに尋ねる。「ええとにかく表情が大事ですから」と東風子はどこまでも文芸家の気でいる。「うまく癪が起りましたか」と主人は警句を吐く。「癪だけは第一回には、些(ち)と無理でした」と東風子も警句を吐く。「ところで君は何の役割でした」と主人が聞く。「私(わたく)しは船頭」「ヘー、君が船頭」君にして船頭が務まるものなら僕にも見番位はやれるといったような語気を洩らす。やがて「船頭は無理でしたか」と御世辞のないところを打ち明る。東風子は別段癪に障った様子もない。やはり沈着な口調で「その船頭で切角の催しも竜頭蛇(りゅうとうだ)尾(び)に終りました。実は会場の隣りに女学生が四、五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読会があるという事を、どこかで探知して会場の窓下へ来て傍聴していたものと見えます。私しが船頭の仮色(こわいろ)を使って、漸く調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐(こ)らえていた女学生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、極りが悪るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後がつづけられないので、とうとうそれぎりで散会しました」第一回としては成功だと称する朗読会がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。覚えず咽喉仏がごろごろ鳴る。主人はいよいよ柔かに頭を撫でてくれる。人を笑って可愛がられるのはありがたいが、聊(いささ)か無気味な所もある。「それは飛んだ事で」と主人は正月早々弔詞を述べている。「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入会の上御尽力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんか起せませんよ」と消極的の主人はすぐに断わりかける。「いえ、癪などは起して頂かんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」といいながら紫の風呂(ふろ)敷(しき)から大事そうに小菊版(こぎくばん)の帳面を出す。「これへどうか御署名の上御捺印(ごなついん)を願いたいので」と帳面を主人の膝の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文学博士、文学士連中の名が行儀よく勢揃(せいぞろい)をしている。「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と牡蠣(かき)先生は掛念(けねん)の体(てい)に見える。「義務と申して別段是非願う事もない位で、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表(おひょう)し下さればそれで結構です」「そんなら這入ります」と義務のかからぬ事を知るや否や主人は急に気軽になる。責任さえないという事が分っていれば謀叛(むほん)の連判状へでも名を書き入れますという顔付をする。のみならずこう知名の学者が名前を列(つら)ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない主人に取っては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。「ちょっと失敬」と主人は書斎へ印をとりに這入る。吾輩はぼたりと畳の上へ落ちる。東風子は菓子皿の中のカステラをつまんで一口に頰張(ほおば)る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。吾輩は今朝の雑煮事件をちょいと思い出す。主人が書斎から印形(いんぎょう)を持って出て来た時は、東風子の胃の中にカステラが落ち付いた時であった。主人は菓子皿のカステラが一切足りなくなった事には気が着かぬらしい。もし気がつくとすれば第一に疑われるものは吾輩であろう。

 東風子が帰ってから、主人が書斎に入(い)って机の上を見ると、いつの間にか迷亭先生の手紙が来ている。

  「新年の御慶(ぎょけい)…

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