夏目漱石「吾輩は猫である」20

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 「ちょいと西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一斤(きん)すぐ持って来るんだよ。いいかい、分ったかい、牛肉の堅くない所を一斤だよ」と牛肉注文の声が四隣の寂寞(せきばく)を破る。「へん年に一遍牛肉を誂(あつら)えると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ阿魔(あま)だ」と黒は嘲(あざけ)りながら四つ足を踏張(ふんば)る。吾輩は挨拶の仕様もないから黙って見ている。「一斤位じゃあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ」と自分のために誂えたものの如くいう。「今度は本当の御馳走だ。結構々々」と吾輩はなるべく彼を帰そうとする。「御(お)めっちの知った事じゃねえ。黙っていろ。うるせえや」といいながら突然後足(あとあし)で霜柱の崩れた奴を吾輩の頭へばさりと浴びせ掛(かけ)る。吾輩が驚ろいて、からだの泥を払っている間(ま)に黒は垣根を潜(くぐ)って、どこかへ姿を隠した。大方西川の牛(ぎゅう)を覘(ねらい)に行ったものであろう。

 家(うち)へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて主人の笑い声さえ陽気に聞える。はてなと明け放した椽側から上って主人の傍(そば)へ寄(よっ)て見ると見馴(みな)れぬ客が来ている。頭を奇麗に分けて、木綿の紋付の羽織に小倉(こくら)の袴(はかま)を着(つけ)て至極真面目(まじめ)そうな書生体(てい)の男である。主人の手あぶりの角(かど)を見ると春慶(しゅんけい)塗(ぬ)りの巻(まき)烟草(タバコ)入れと並んで越智(おち)東風(とうふう)君を紹介致(いたし)候(そろ)水島寒月という名刺があるので、この客の名前も、寒月君の友人であるという事も知れた。主客(しゅかく)の対話は途中からであるから前後がよく分らんが、何でも吾輩が前回に紹介した美学者迷亭君の事に関しているらしい。

 「それで面白い趣向があるか…

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