夏目漱石「吾輩は猫である」34

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 「自分の妻を褒(ほ)めるのは可笑(おか)しいようであるが、僕はこの時ほど細君を美しいと思った事はなかった。もろ肌を脱いで石鹼(せっけん)で磨(みが)き上げた皮膚がぴかついて黒(くろ)縮緬(ちりめん)の羽織と反映している。その顔が石鹼と摂津大掾を聞こうという希望との二つで、有形無形の両方面から輝やいて見える。どうしてもその希望を満足させて出掛けてやろうという気になる。それじゃ奮発して行こうかな、と一ぷくふかしていると漸く甘木先生が来た。うまい注文通りに行った。が容体をはなすと、甘木先生は僕の舌を眺めて、手を握って、胸を敲(たた)いて背を撫(な)でて、目縁(まぶち)を引っ繰り返して、頭蓋骨(ずがいこつ)をさすって、しばらく考え込んでいる。「どうも少し険呑(けんのん)のような気がしまして」と僕がいうと、先生は落ち付いて、「いえ格別の事も御座いますまい」という。「あのちょっと位外出致しても差支は御座いますまいね」と細君が聞く。「さよう」と先生はまた考え込む。「御気分さえ御悪くなければ……」「気分は悪いですよ」と僕がいう。「じゃともかくも頓服(とんぷく)と水薬(すいやく)を上げますから」「へえどうか、何だかちと、危ないようになりそうですな」「いや決して御心配になるほどの事じゃ御座いません、神経を御起しになるといけませんよ」と先生が帰る。三時は三十分過ぎた。下女を薬取りにやる。細君の厳命で馳け出して行って、馳け出して返ってくる。四時十五分前である。四時にはまだ十五分ある。すると四時十五分前頃から、今まで何ともなかったのに、急に嘔気(はきけ)を催おして来た。細君は水薬を茶碗(ちゃわん)へ注(つ)いで僕の前へ置いてくれたから、茶碗を取り上げて飲もうとすると、胃の中からげーという者が吶喊(とっかん)して出てくる。やむをえず茶碗を下へ置く。細君は「早く御飲(おのみ)になったら宜いでしょう」と逼(せま)る。早く飲んで早く出掛けなくては義理が悪い。思い切って飲んでしまおうとまた茶碗を唇へつけるとまたゲーが執念深く妨害をする。飲もうとしては茶碗を置き、飲もうとしては茶碗を置いていると茶の間の柱時計がチンチンチンチンと四時を打った。さあ四時だ愚図々々してはおられんと茶碗をまた取り上げると、不思議だねえ君、実に不思議とはこの事だろう、四時の音と共に吐き気がすっかり留まって水薬が何の苦なしに飲めたよ。それから四時十分頃になると、甘木先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、脊中がぞくぞくするのも、眼がぐらぐらするのも夢のように消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気が忽(たちま)ち全快したのは嬉しかった」

 「それから歌舞伎座(かぶきざ)へ一所に行ったのかい」と迷亭が要領を得んという顔付をして聞く。

 「行きたかったが四時を過ぎ…

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