夏目漱石「吾輩は猫である」28

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 「それぎりかい」「むむ、甘(うま)いじゃないか」「いやこれは恐れ入った。飛んだ所でトチメンボーの御返礼に預った」「御返礼でもなんでもないさ、実際うまいから訳して見たのさ、君はそう思わんかね」と金縁の眼鏡の奥を見る。「どうも驚ろいたね。君にしてこの伎倆(ぎりょう)あらんとは、全く此度(こんど)という今度は担がれたよ、降参々々」と一人で承知して一人で喋舌(しゃべ)る。主人には一向通じない。「何も君を降参させる考えはないさ。ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ」「いや実に面白い。そう来なくっちゃ本ものでない。凄(すご)いものだ。恐縮だ」「そんなに恐縮するには及ばん。僕も近頃は水彩画をやめたから、その代りに文章でもやろうと思ってね」「どうして遠近無差別黒白(こくびゃく)平等の水彩画の比じゃない。感服の至りだよ」「そうほめてくれると僕も乗り気になる」と主人はあくまでも疳違(かんちが)いをしている。

 ところへ寒月君が先日は失礼しましたと這入って来る。「いや失敬。今大変な名文を拝聴してトチメンボーの亡魂を退治られたところで」と迷亭先生は訳のわからぬ事をほのめかす。「はあ、そうですか」とこれも訳の分らぬ挨拶をする。主人だけはさのみ浮かれた気色もない。「先日は君の紹介で越智東風(おちとうふう)という人が来たよ」「ああ上りましたか、あの越智東風(おちこち)という男は至(いたっ)て正直な男ですが少し変っている所があるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、是非紹介してくれというものですから……」「別に迷惑の事もないがね……」「こちらへ上っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか」「いいえ、そんな話しもなかったようだ」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈をするのが癖でしてね」「どんな講釈をするんだい」と事あれかしと待ち構えた迷亭君は口を入れる。「あの東風(こち)というのを音で読まれると大変気にするので」「はてね」と迷亭先生は金唐皮(きんからかわ)の烟草(タバコ)入(いれ)から烟草をつまみ出す。「私しの名は越智東風(とうふう)ではありません、越智こちですと必ず断りますよ」「妙だね」と雲井(くもい)を腹の底まで呑(の)み込む。「それが全く文学熱から来たので、こちと読むと遠近という成語になる、のみならずその姓名が韻を踏んでいるというのが得意なんです。それだから東風(こち)を音で読むと僕が切角の苦心を人が買ってくれないといって不平をいうのです」「こりゃなるほど変ってる」と迷亭先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻の孔まで吐き返す。途中で烟が戸迷(とまど)いをして咽喉(のど)の出口へ引きかかる。先生は烟管(キセル)を握ってごほんごほんと咽(むせ)び返る。「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ」と主人は笑いながらいう。「うむそれそれ」と迷亭先生が烟管で膝頭(ひざがしら)を叩く。吾輩は険呑(けんのん)になったから少し傍(そば)を離れる。「その朗読会さ。先達てトチメンボーを御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回には知名の文士を招待(しょうだい)して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それから僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新しい者を撰んで『金色夜叉(こんじきやしゃ)』にしましたというから、君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は御宮(おみや)ですといったのさ。東風の御宮は面白かろう。僕は是非出席して喝采(かっさい)しようと思ってるよ」「面白いでしょう」と寒月君が妙な笑い方をする。「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄な所がないから好(い)い。迷亭などとは大違いだ」と主人はアンドレア・デル・サルトと孔雀の舌とトチメンボーの復讐(かたき)を一度にとる。

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