夏目漱石「吾輩は猫である」14

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 先達て〇〇は朝飯を廃すると胃がよくなるというたから二(に)、三日(さんち)朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非香(こう)の物(もの)を断てと忠告した。彼の説によると凡(すべ)て胃病の源因は漬物(つけもの)にある。漬物さえ断てば胃病の源(みなもと)を涸(か)らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸を触れなかったが別段の験(げん)も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹揉療治(あんぷくもみりょうじ)に限る。但し普通のではゆかぬ。皆川流(みながわりゅう)という古流な揉み方で一、二度やらせれば大抵の胃病は根治(こんじ)出来る。安井息軒(やすいそっけん)も大変この按摩術(あんまじゅつ)を愛していた。坂本龍馬(さかもとりょうま)のような豪傑でも時々は治療をうけたというから、早速上根岸(かみねぎし)まで出掛けて揉まして見た。ところが骨を揉まなければ癒(なお)らぬとか、臓腑(ぞうふ)の位置を一度顚倒(てんどう)しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉み方をやる。後で身体(からだ)が綿のようになって昏睡病(こんすいびょう)にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君は是非固形体を食うなという。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B氏は横膈膜(おうかくまく)で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試(ため)しにやって御覧という。これも多少やったが何となく腹中が不安で困る。それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五、六分立つと忘れてしまう。忘れまいとすると横膈膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ。美学者の迷亭(めいてい)がこの体(てい)を見て、産気のついた男じゃあるまいし止(よ)すがいいと冷かしたからこの頃は廃(よ)してしまった。C先生は蕎麦(そば)を食ったらよかろうというから、早速かけともりをかわるがわる食ったが、これは腹が下るばかりで何らの功能もなかった。余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たが凡(すべ)て駄目である。ただ昨夜(ゆうべ)寒月と傾けた三杯の正宗は慥(たし)かに利目(ききめ)がある。これからは毎晩二、三杯ずつ飲む事にしよう。

 これも決して長く続く事はあるまい。主人の心は吾輩の眼球(めだま)のように間断なく変化している。何をやっても永持(ながもち)のしない男である。その上日記の上で胃病をこんなに心配しているくせに、表向は大(おおい)に痩我慢(やせがまん)をするから可笑(おか)しい。先達てその友人で某(なにがし)という学者が尋ねて来て、一種の見地から、凡ての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果に外ならないという議論をした。大分研究したものと見えて、条理が明晰(めいせき)で秩序が整然として立派な説であった。気の毒ながらうちの主人などは到底これを反駁(はんばく)するほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる際だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であるといったような、見当違いの挨拶(あいさつ)をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と極(き)め付けたので主人は黙然(もくねん)としていた。かくの如く虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽(こっけい)だ。考えて見ると今朝雑煮をあんなに沢山食ったのも昨夜(ゆうべ)寒月君と正宗を引(ひっ)くり返した影響かも知れない。吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。

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