夏目漱石「吾輩は猫である」9

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    二

 吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。

 元朝(がんちょう)早々主人の許(もと)へ一枚の絵端書(えはがき)が来た。これは彼の交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部を深緑りで塗って、その真中に一の動物が蹲踞(うずくま)っているところをパステルで書いてある。主人は例の書斎でこの絵を、横から見たり、竪(たて)から眺(なが)めたりして、うまい色だなという。既に一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしている。からだを拗(ね)じ向けたり、手を延ばして年寄が『三世相(さんぜそう)』を見るようにしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと膝(ひざ)が揺れて険呑(けんのん)でたまらない。漸(ようや)くの事で動揺が余り劇(はげ)しくなくなったと思ったら、小さな声で一体何をかいたのだろうという。主人は絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、先(さ)っきから苦心をしたものと見える。そんな分らぬ絵端書かと思いながら、寐(ね)ていた眼を上品に半ば開いて、落付き払って見ると紛れもない、自分の肖像だ。主人のようにアンドレア・デル・サルトを極(き)め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫の中(うち)でも他(ほか)の猫じゃない吾輩である事が判然とわかるように立派に描(か)いてある。この位明瞭(めいりょう)な事を分らずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。出来る事ならその絵が吾輩であるという事を知らしてやりたい。吾輩であるという事は好(よ)し分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らして遣(や)りたい。しかし人間というものは到底吾輩猫属の言語を解し得る位に天の恵(めぐみ)に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにして置いた。

 ちょっと読者に断(ことわ)…

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