「息子に殺される」母は交番に駆け込んだ(わたしの思い 大野祥之さん:2)

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 音楽評論家の大野祥之さんに、認知症を発症した母親の介護をした日々を語っていただく連載の2回目。全5回で、毎週木曜日に配信する予定です。

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 2007年12月10日にレッドツェッペリンがロンドンで復活ライブを行った。3カ月ほど前に知り合いから連絡を受け、チケットも何とかなると聞いて、じゃあ行こう、と決めた。「仕事で英国に行くからいつも通っているデイサービスにステイ(宿泊)してもらえないか」と聞くと、母は「私なら、ひとりで家にいてもだいじょうぶよ」と笑った。

 母はその頃、火を使ってはいけないことを忘れて、料理を作ることが増えていた。皿を落として危ないので、洗い物も母に頼まないようにしていたが、僕の目を盗んでやってしまう。困って、テーブルと椅子を積み上げてバリケードを作り、母が台所に入れないようにした。ところが母は、全部崩して入って行くのだ。

 そんなやりとりがあった翌日、突然、近所に住む親類たちがうちに来て、「親に家から出て行けって言ったんだって?」と僕を叱りつけた。

 「違いますよ。仕事で1週間ほど留守にする間、施設に泊まって欲しいと頼んだだけです」。説明しても、頭ごなしに怒るばかりで、僕の言葉は聞いてもらえなかった。

 仕方なくロンドンに行くのは断念した。仕事のうえでも非常に痛手だったけれど。

 その2週間後のクリスマス前に、渋谷公会堂でZIGGYのライブを見た後、右耳がキーンと鳴っているのに気づいた。その2日後には、僕の右側で話す妻の声が、左側の耳からしか聞こえなかった。そしてクリスマスの朝、起きたら右耳が全く聞こえなくなっていた。

 とにかく驚いて、すぐさま耳鼻科に駆け込んだところ、突発性難聴と診断された。ストレスが原因で起きることが多い症状で、「治せる病院は近くにひとつしかない。今すぐ行ってください」とせかされた。

 指定された病院に行くと、医者が「いますぐ手当てしないとダメ。すぐ入院しても治るかどうかは五分五分。最低でも2週間はかかります」。

 しかし、母親のこともあるので、2日の猶予をもらってケアマネジャー(ケアマネ)に相談し、病院と交渉した結果、点滴の時間帯以外は外出していいことになった。午前中に点滴を受け、午後から帰宅してご飯を作って掃除して、夕方には病院に戻る――。こんな入院生活が3週間続いた。

 新年を病院で迎えたものの、なんとか聴力は回復。「これは奇跡ですよ」と医者に言われた。

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 母は当時、週に3回ほどデイサービスに通い、夕方には帰宅していた。ところが、「昨日お母さんが夜1人で歩いていたけど、お帰りになりましたか?」と近所の人に言われたことがあった。時刻を確認すると僕が帰宅する少し前の時間帯だった。1人で手押し車を押して歩いていたという。脳梗塞(こうそく)の後遺症で半身が不自由なのに、徘徊(はいかい)するようになっては危ないので、なるべく母から目を離さないようにするために、夜ほとんど寝られないような状態に突入せざるを得なくなってしまったのだった。

 2008年の春先だったか、日曜日の仕事帰りに東京駅で母の好きな駅弁を買った。午後7時ごろに帰宅すると、母がいない。手押し車もない。近所を回って捜しても、誰も見ていないと言う。

 そうこうするうちに、午後9…

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