夏目漱石「吾輩は猫である」5

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 我儘もこの位なら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。

 吾輩の家の裏に十坪(とつぼ)ばかりの茶園がある。広くはないが瀟洒(さっぱり)とした心持ち好く日の当る所だ。うちの小供があまり騒いで楽々昼寐の出来ない時や、余り退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでも此所(ここ)へ出て浩然(こうぜん)の気を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後(ちゅうはんご)快よく一睡した後、運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本々々嗅(か)ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寐ている。彼は吾輩の近付くのも一向心付かざる如く、また心付くも無頓着(むとんじゃく)なる如く、大きな鼾(いびき)をして長々と体を横(よこた)えて眠っている。他(ひと)の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に睡(ねむ)られるものかと、吾輩は窃(ひそ)かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。僅(わず)かに午(ご)を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛(な)げかけて、きらきらする柔毛(にこげ)の間より眼に見えぬ炎でも燃え出(い)づるように思われた。彼は猫中の大王ともいうべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍は慥(たし)かにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立(ちょりつ)して余念もなく眺(なが)めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐(ごとう)の枝を軽(かろ)く誘ってばらばらと二、三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はかっとその真丸(まんまる)の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀(こはく)というものよりも遥(はる)かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸(そうぼう)の奥から射る如き光を吾輩の矮小(わいしょう)なる額の上にあつめて、御めえは一体何だといった。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫(ひ)しぐべき力が籠(こも)っているので吾輩は少なからず恐れを抱(いだ)いた。しかし挨拶(あいさつ)をしないと険呑(けんのん)だと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓は慥かに平時よりも烈(はげ)しく鼓動しておった。彼は大(おおい)に軽蔑(けいべつ)せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全(ぜん)てえどこに住んでるんだ」随分傍若無人である。「吾輩はここの教師の家(うち)にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠(やせ)てるじゃねえか」と大王だけに気焰(きえん)を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。しかしその膏切(あぶらぎ)って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は「そういう君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己(お)りゃあ車屋の黒よ」昂然(こうぜん)たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮の念も生じたのである。吾輩は先ず彼がどの位無学であるかを試して見ようと思って左(さ)の問答をして見た。

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 「一体車屋と教師とはどっち…

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