(ナガサキノート)原爆の青白い閃光、伊王島から見えた

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力丸祥子・28歳
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中村久枝さん(1928年生まれ)

 2015年11月、長崎市の伊王島で核兵器廃絶をめざす世界の科学者が集まるパグウォッシュ会議があった。会場で長崎平和推進協会写真資料調査部会が原爆写真展を開いた。

 伊王島で生まれ育った中村久枝(なかむらひさえ)〈旧姓・小林〉さん(87)も来場した。防災無線で写真展を知り、足を運んだという。写真展の解説をしていた部会長の深堀好敏(ふかほりよしとし)さん(86)が話しかけると、中村さんは「原爆が落とされる1年くらい前まで、浦上教会の下にあった学校に通っていたんです」と語った。

 毎朝、船で通学し、戦争が激しくなると学校に行けなくなったこと。1945年8月9日は学徒動員先の伊王島炭鉱の事務所から原爆の閃光(せんこう)を見たこと。深堀さんは「伊王島から原爆がどう見えたかという話は貴重」と興味深そうだった。

 記者も「中村さんからしか聞けない話がある」と感じ、改めて訪ねて話を聞いた。

 中村さんは長崎港から南西におよそ10キロ離れた伊王島に生まれた。父は大阪の海運会社に勤める貨物船の乗組員。台湾などに頻繁に行き、外国製の服や文房具などを送ってくれたが、家にいた記憶はほとんどないという。母は畑仕事をしながら中村さんらきょうだい6人を育てた。「母は父親役を兼ねたように、はっきりした人でした」。

 島には尋常小学校があったが、旧制中学や女学校はなかった。進学する島の子どもたちは、船で長崎に通学することが普通だったという。

 中村さんは41年、長崎市上野町の常清女学校(現在の信愛幼稚園の場所)に進んだ。船が島を出るのは毎朝6時。乗り遅れたら学校を休まざるを得ない。「冬なんかはまだ暗い時間に、ほとんど眠ったまま船着き場に行き、船でまた寝ていました」。カトリック信徒が多い伊王島からは、純心高等女学校や海星中学校などに通学する人もいた。

 中村さんが暮らした伊王島では、農業を営む人が多かったという。中村さんの家の畑でも、麦やサツマイモ、ジャガイモなどを作っていた。食事の時には必ず自家製のみそでつくるみそ汁が出た。

 島の近くの海でイワシがとれる時期には、港でたくさん買ってきて、塩漬けにした。干しイモなど保存食を常備する習慣があり、戦争が激しくなっても「食料には困らなかった」と振り返る。

 だが、島でも戦争の影響は日に日に深刻になるように感じた。それぞれの家や畑には防空壕(ごう)が掘られ、厳しい灯火管制で電気がつけられなくなった。夜間でも空襲警報が発令されれば、幼いきょうだいの手を引いて家の近くの防空壕に走った。島北部は要塞(ようさい)地になり、軍が駐屯して、住民は立ち入りができなくなったという。

 女学校の卒業を控えた44年11月には学徒動員で島の炭鉱で働くことが決まり、学校に行けなくなった。

 伊王島では41年、長崎鉱業により石炭の生産が始まった。中村さんも「お裁縫がうまくなりたい」と通っていた長崎市上野町の常清女学校から、炭鉱の事務所に学徒動員された。「お国のために、少しでも役立てるなら」と考えたという。

 事務所では、帳面の整理や電話を受けたり、掃除をしたりした。「どんどん人が来て、炭鉱が盛んになっていくのがわかった」。

 45年3月になっても、学校から卒業式の連絡はなく、忙しく仕事をする毎日だった。当時は「何も考えなかった」というが、今では「戦争がなければ、みんなと卒業式に出ることができたのに。残念だった」と思う。

 45年8月9日も、朝から事務所で仕事をしていた。電話室から出て「所長さん、電話です」と話しかけたとたん、「ピカーっと青白いカーバイドのような光」が窓から差し込んだ。音は聞こえなかったが、「炭鉱がやられた」と思い、防空壕(ごう)に走った。

 中村さんの記憶では、伊王島の長崎市を望む方面には社宅が立ち並んでいて、中村さんがいた炭鉱の事務所からは直接、長崎市内は見えなかったと思う。だが、防空壕(ごう)の中でほかの人に聞いた話では、長崎に面していた事務所の東側の窓は爆風で割れたという。あんなに強い光を見たのに、炭鉱が空襲を受けた様子はなく、不思議に思っていた。

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 中村さんたちが「攻撃された…

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