(ナガサキノート)被爆は一瞬ではない、一代で終わらぬ

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岡田将平・34歳
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木村徳子さん(1935年生まれ)

 今年10月下旬、東京都世田谷区に住む木村徳子(きむらとくこ)さん(80)=旧姓・芥(あくた)=は、都内のホテルで新潟市の中学生に被爆体験を語った。

 長崎市新地町で被爆したこと、本来なら爆心地に近い城山町に向かうところだったということ、数日後焼け野原を歩いて城山町まで歩いたこと、結婚後、子どもを産むかどうか悩んだこと……。「核兵器を造るのも人間、やめさせるのも人間。私はやめさせる側の人間でありたい」と訴えかけた。

 私が木村さんと初めて会ったのは4月末、米ニューヨークでのこと。木村さんは核不拡散条約(NPT)再検討会議への日本被団協代表団の一人として参加していた。「被爆は一瞬ではなく、ずっと続いている」と話していたのが印象的だった。

 木村さんは20年以上も証言者として活動している。被爆を封印していた時もあり、今でも語る苦しみはある。それでも続けるのは、「核兵器を1発も残してはならない」という思いからだ。

 木村さんは長崎市中心部の新地町で生まれ育った。現在の中華街の真ん中に自宅があった。街中だったので、東京に来た際、「『田舎』はどこ?」と聞かれるのに違和感があった。「東京のほうが緑が多かった」と笑う。

 建材店を営む父と母、3歳下の弟、5歳下の妹、5歳上で姉のように接したおばがいた。父の建材店では、馬や牛を使って石段の上に荷物を運ぶこともあった。戦争が始まると、従業員は次々と兵隊にとられた。

 今の中華街とは雰囲気が違ったが、自宅の周りには中華料理屋が多く、中国人の友だちもいた。「大人の世界はわからないが、子どもの世界では差別はなかった」という。中国人だけではなく、朝鮮人、インド人、ロシア人など国際色豊かな環境だった。木造の洋館があったことも覚えている。

 佐古国民学校(現・長崎市立佐古小)の同級生には、歌手の美輪明宏(みわあきひろ)さんもいたという。学校では教育勅語を暗唱させられた。

 終戦の2年ほど前の冬、木村さんの父にも赤紙(召集令状)が届いた。父は「いよいよ私にまで来たか」と言った。「急にいなくなるので、とてもとても寂しかった」。母は子どもたちに涙を見せなかったが、夜、薄暗い電気の下、部屋の隅っこにたたずんでいた姿を覚えている。後で、あれは泣いていたんだろうと思い、悲しかった。

 出征の日、同じように出征する男性とともに、父は赤いたすきをかけて、町内会長らに「万歳」と送られた。父も「行って参ります」と敬礼した。その後、列になって旗を振りながら、「勝ってくるぞと勇ましく」と軍歌を歌いながら、長崎駅まで歩いた。

 「母は行きませんでした。母は駅まで行けなかったんだと思う」

 父は福岡・久留米の陸軍の駐屯地に配属され、戦地には行かなかった。3回くらい、母と一緒にお弁当を持って慰問に行った。木村さんら子どもたちが遊んでいる間、父と母はベンチに座って、2人で語り合っていた。

 父が出征し、木村さん一家は木村さんと母と弟、妹、おばの5人となった。母は軍服のボタン付けをしていて、木村さんも手伝った。奉仕作業だったようだ。家計の穴埋めをするため、母は旅館の手伝いに働きにも行っていたという。「あの時代の親は大変だったと思う」

 女学校の生徒だったおばも、学徒動員で三菱造船に働きに行っていた。

 1945年夏になると、木村さん一家は空襲の被害を避けるため、長崎市中心部の新地町から城山町に疎開することになった。木村さんは夏休みになると、荷物の運び入れのため、電車で城山町に通った。疎開先はバラックのような家で、城山国民学校(現・長崎市立城山小)を見下ろす山の方にあった。1学期の終わりには、母が同校への転校手続きをしに行ったことを覚えている。

 新地町に近い市中心部の目標がずれ、城山町に近い松山町に原爆が落とされることになるとは、思いもよらなかった。

 原爆投下前の45年7月末から8月1日にかけて、長崎市内は空襲に見舞われた。木村徳子さんも、その空襲を体験した。

 夏休みに入り、引っ越しのため、新地町から城山町に荷物運びに通っていた木村さん。松山町付近で、路面電車に乗っている時だった、と記憶している。飛行機の翼がぐっと近づいてきて、攻撃してきた。「パイロットの顔が見えるくらい、近かった」

 木村さんはほかの乗客とともに電車を降りて、近くの民家の土間に逃げた。最後に来た女学生のような車掌は腕から血が流れていて、真っ青な顔をしていた。乗客が服を破って手当てをしたという。男の人が「ああ、あれは帰りの駄賃だね」と言った。残っていた弾をそこら辺にばらまいた、という意味のようで、それを聞き、「ああ、そっか」とぼんやりと思った。

 原爆の時は爆心地から3・6キロで被爆した木村さん。「狙われていて、原爆よりこっちのほうが怖かった」と振り返る。

 木村さんは8月9日も、疎開先の長崎市城山町に行くつもりだった。だが、その朝、空襲警報が出て、近所の防空壕(ごう)に避難した。解除されたが、母は「もう遅いから今日はやめよう」と言った。「いつも通り行っていれば、爆心地近くの松山町付近を歩いていたところだったでしょう」。助かったものの、「犠牲になった人のことを思うと、幸運だったとは思えない」と語る。

 弟や妹と自宅の2階で紙人形で遊んでいる時だった。「グーン」という爆音が聞こえてきた。何かと思って立ち上がると、窓の外に、周りに白い輪っかをまとったオレンジ色の火の玉のようなものが見えた。2階から階段を飛び降りるようにして降りた。逃げようとしたが、どーんと大きな音がして、れんがの壁が後ろから倒れてきて下敷きになった。

 その時は「となりの家に爆弾が落ちた」と思った。れんがからはい出して、自宅の地下壕(ごう)に落ちるように入った。弟と、泣いている妹を抱いた母もやってきた。

 地下壕に入ると、遠くからゴーッという大きな音が聞こえ、地震のように地面が揺れた。何が起きたかわからず、震えていた。

 しばらくたつと、警防団の男性が「敵機はいなくなった、いまのうち逃げろ」と言った。出てみると、昼なのに辺りは暗くなっていて、近所の防空壕に走った。暑いので壕に出たり入ったりし、外にいる時、爆心地方向にあたる北の方から灰色の塊のようなものが近づいてくるのが見えた。さらに近づくと、人の集まりだとわかった。顔は真っ赤に腫れ上がり、髪は灰をかぶっていた。肌が出ているところは全部やけどしていた。

 逃げてきた人たちは水を求め、うめき声をあげ、傷口からは嫌なにおいがした。いたたまれなくなって、「何もできなくてごめんなさい」と家に戻った。だが、自宅は壊れて入れず、その夜から新地町の石畳にござやむしろを敷いて横になった。原爆当夜、浦上方面の空は朝まで赤く燃えていた。

 原爆投下から数日後。木村さんは疎開する予定だった城山町の家の様子を見てきてほしい、と母に言われた。その時は、その方面が爆心地になり、ひどい状態になっていることは知らなかった。

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 木村さんは女学生だったおば…

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