(ナガサキノート)「死ぬってどんな感じなんだろう」

有料記事

岡田将平・34歳
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高原シズ子さん(1930年まれ)

 1945年秋ごろ、長崎市沖合の離島・高島で、県立長崎高等女学校3年生だった高原(たかはら)シズ子(こ)さん(84)=同市田上1丁目=は、病床から青空を見上げ、ぼんやりと思っていた。「私、死ぬのかな。死ぬってどんな感じなんだろう」

 8月9日、学徒動員で働いていた同市の三菱兵器大橋工場(現在の長崎大の場所)で被爆した。島の両親の元に戻り、1カ月ほどしてから、吐き気を催し、体には皮下出血の斑点が出てきた。当時、原爆を受けて同じような症状が出た人が次々と亡くなっていて、高原さんの周りも、高原さんが同じようになるかもしれない、と思っていた。

 だが、命はつながれ、今、私の目の前で高原さんはほほえむ。70年前の話を聞くと、学徒動員や食糧不足の戦時中の体験は大変だったように思われる。だが、高原さんは笑顔で「子どもは子どもで楽しかったんです」と語る。その人生の歩みをじっくり聞かせてもらった。

 高原さんは高島で育った。今年、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして世界遺産になった北渓井坑(ほっけいせいこう)跡がある島で、高原さんが住んでいた時も、島は炭鉱で栄えていた。父は三菱の高島鉱業所で広報の仕事をしていたという。鉱業所は軍艦島として知られる端島も含み、父は社内向けの新聞を作っていたという。「あそこの炭は上等だった」と語る。

 高原さんは「優雅でしたよ。いい時代でした」と島での生活を振り返る。近所にはテニスコートがあり、休日になるとポン、ポンと球を打ち合う音が聞こえてきた。

 高島の国民学校を卒業すると、県立長崎高等女学校に進学。高島を離れ、寮生活をすることになった。寮となったのは、今も多くの洋館が残る長崎市東山手地区にある洋館で、会社が借りていたという。「天井が高くて暖炉があった」。同級生の友だちと、舎監の夫婦だけが住み、板張りの床に畳を置き、その上に布団を敷いて寝たという。

 県立長崎高等女学校に進学した高原さんは、勉強した記憶があまりない。1、2年生の時には学校の畑で芋を作っていた。食料は不足していて、高原さんもひもじい思いをした。「田舎に行けば食べ物をもらえるのでは」と考え、線路伝いに市北部の道ノ尾あたりまで友だちと歩いて行ったこともあるが、農家に断られたという。

 3年生になったのは、戦況が悪化した45年4月。高原さんは、長崎が空襲を受け、大波止で爆撃を受けて、おなかが裂けた人を目撃したことを覚えている。

 3年生からは、学徒動員にも行かなければならなかった。高原さんが配属されたのは、魚雷を造っていた三菱兵器大橋工場だった。高原さんは同じ寮の友だちとともに、東山手から5キロほど先の工場まで歩いて通った。その間、ずっと友だちと話した。「一人っ子で育てられて、寂しかったから、友だちと一緒にいるのが楽しかった。動員を深刻には考えていなかったです」

 高原さんが動員されたのは、三菱兵器大橋工場の中の鍛造工場。大きな溶鉱炉があり、高原さんの仕事は、炉から取り出した金属の硬さを調べることだったという。

 明かりがもれないよう、工場に窓はなく、入り口が四つあるだけだった。「最初に配置された時は怖くて、友だちと抱き合って泣きました」と語る。だが、原爆の時は、これが幸いしたと思っている。別の部署ではガラス窓が割れ、その破片でけがをした人が多かったからだ。大橋工場の敷地の中で一番爆心地から遠い建物でもあり、「(原爆を)受けた場所が良かった」と話す。

 空襲警報が出れば、工場から国鉄の線路を挟んだ先にある寺に逃げ、木の下の茂みに隠れた。そこでは、持っていた煎り大豆をぼりぼりと食べながら、友人たちと話していたことを思い出す。「深刻さとは無縁だった。子どもの世界は楽しかった」。「茂みがすごかった。原爆が落ちた時にあそこにいたら、みんな焼け死んでいたと思う」とも話した。

 高原さんが住んでいた長崎市東山手の寮の近くには軍の資材置き場のような場所があったといい、そこに出入りする顔見知りの兵隊もいた。

 45年8月9日、高原さんは体調が悪く、三菱兵器大橋工場での仕事を休むつもりで寮にいた。だが、兵隊の一人から声をかけられた。「大橋工場に用事があるから、トラックに乗っていかないか」。高原さんは一緒に大橋工場まで行った。そこで、原爆に遭うことになった。

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 職場の鍛造工場には窓がなか…

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