(ナガサキノート)妊娠・被爆…手紙で知った祖母の体験

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小野太郎・27歳
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本田美代子さん(1921年生まれ)

 JR長崎駅から特急や新幹線を乗り継いで4時間以上。5月下旬、緑の水田が広がる道を通り抜けると、本田美代子(ほんだみよこ)さん(93)=鹿児島県日置市=の自宅が見えた。

 朝日新聞は被爆70年の今年、全国の被爆者にアンケートを実施し、約5800人から回答をいただいた。本田さんは、その回答に別紙でメッセージを添えてくれた一人だ。

 原爆の悲惨さを伝えられる機会が今後何度あるか考えるようになり、手紙に記す決意をいたしました。

 戦争を知らない世代にあてて書かれた手紙だった。

 本田さん宅の居間で取材の準備を進めていると、しばらくして孫の有馬正吾さん(32)が現れた。聞くと、その手紙を最初に読んだのが有馬さんだという。「4月の終わりごろです。急に読んでくれって。実は、おばあちゃんの体験はあんまり聞いたことがなくて」

 一通の手紙をきっかけに、祖母と孫が、あの夏の体験を共有した。

 1945年8月9日。本田さんは爆心地から約2・5キロにある長崎市旭町の自宅にいた。夫親行(ちかゆき)さん=2001年死去=を仕事場に送り出して、靴下の穴を縫っていた。

 「それで、ちょっと立ち上がろうとしたときに『ドン』ですよ」

 とっさに伏せた。ガラスが割れ、土壁が崩れ落ちる。「息がされんとですよ。もうだめかと」。何分そうしていたか。音が静まって目を開けると、部屋中にほこりが舞っていた。自宅は無事だった。

 玄関先の路地はがれきで埋まった。遠くの建物は炎を上げる。露地栽培のナスに触ると、表面が焦げて硬くなっていた。

 親行さんが勤める造船所の社宅に避難した。道を歩くと、負傷者とすれ違う。「もうなんとも言われん臭いがしてね。かわいそかけど、顔をふさぐしかないですよね」

 夫は安否不明の同僚を捜すため、爆心地周辺も歩いた。人の手足が木の枝のように投げ出された路面電車の残骸を見たという。

 「実は私、被爆したとき、おなかに子どもがいたんです」

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 被爆後の8月中旬。妊娠初期…

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