(ナガサキノート)被爆直後の街、血と火の海だった

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八尋紀子・41歳
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中嶋輝男さん(1926年生まれ)

 「平和って言われると反対できんでしょ」

 政府が成立をめざす安全保障関連法案について意見を尋ねると、中嶋輝男(なかしまてるお)さん(88)=熊本市北区=は焦りをにじませながらつぶやいた。政府が集団的自衛権の行使を認める安保関連法案を「平和安全法制」と呼び、安倍晋三(あべしんぞう)首相が「平和のために必要」と説明してきたことに違和感を抱き続けている。

 戦争中は軍事施設を回ることもある電話局職員だった。軍隊の非人道性を目の当たりにしたこともある。原爆投下直後に長与村(当時)から長崎市中心部に向かって入市被爆し、その途中では無残に力尽きた多くの人たちを見た。

 子や孫にはあんな時代を味わわせたくないと強く思う。戦争や軍隊を知らない人がほとんどの今、知る自分たちが政府にブレーキをかけなければいけないと思っている。

 代々続く農家に生まれた。旧制諫早中(現・諫早高)に入学したが、戦況悪化で5年制が4年制になっていた。

 中嶋さんは旧制諫早中を卒業後、電話局に勤めた。そこでも研修は1年から半年に短縮されていた。1944年10月、今の長崎市築町あたりにあった長崎電話局に配属された。保守作業の担当になり、宿直もある3交代の勤務についた。

 45年3月には徴兵検査を受けて甲種に合格した。すぐに召集されると思ったが召集されず、同級生や近所に「なんでお前だけ軍隊に行かんとや」と言われて肩身が狭かった。知り合いを通じて軍の関係者に問い合わせたこともある。中嶋さんには職場の人を兵隊に送った記憶がない。電話局には軍に関連する仕事があったので、召集されなかったのではないかと想像している。中嶋さんも冠山にあった陸軍高射砲連隊の本部から金比羅山や稲佐山、香焼などを2人一組で歩いて回り、通信機器の点検をした。

 8月8日は鍋冠山の本部で当直の予定だったが、夜になり、軍の班長に翌日午後6時までに戻るなら自宅に帰っていいと言われた。

 当直勤務がなくなった中嶋さんが歩いて長与村の自宅にたどり着いたのは、8月9日の午前2時を回っていた。

 9日の朝は集落の共同作業で山に飛行機の油として使う松根油を取りに行った。松の根を掘っている時に、葉っぱごしに青白い光と大波が襲うような突を感じた。見晴らしのよい場所に行って長崎市のほうを見ると、雲の形がいつもと全く違っていた。爆心地までは10キロ以上離れていたが、真っ黒の煙が立ち上がっているのがよく見えた。

 あわてて山を下りると、商店のガラスは割れ、雨戸がくの字に曲がっていた。集落の人が集まっていたが、電話も通じず、みんなただわーわーと言い合っていた。

 午後1時か2時ごろ、長崎から人がぽつぽつやって来た。血だらけで、「長崎はなんもなくなった」「血の海だ」などと言う。水を飲ませて落ち着かせて聞くと、「家が一軒もない」「人間が燃えた」。何が起きているか想像もつかなかった。

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 中嶋さんの父親と弟はともに…

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