(ナガサキノート)犠牲になった方々の分まで、生きよう

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力丸祥子・28歳
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近藤実さん(1931年生まれ)

 長崎市秋月町。長崎港沿いにあるかつての職場、三菱重工業長崎造船所の白と赤のしま模様のクレーンを見下ろす高台に、近藤実(こんどうみのる)さん(83)の自宅はある。

 居間には、近藤さんが国内外で撮影した山々の写真が飾られていた。1992年に三菱重工業定年退職してから、本格的に山登りと写真を始めたという。退職金をつぎ込み、世界最高峰の一つとされるスウェーデン製カメラ、ハッセルブラッドを購入。海外ではスイスネパール、国内では立山や阿蘇……。およそ700回の登山を重ね、風光明媚(ふうこうめいび)な景色をカメラに収めてきた。

 「人生を振り返れば、決してマイナスではなかったと思う。登山もある。写真もある」。近藤さんはこれまでの思い出話を楽しそうに聞かせてくれた。

 ただ、戦争前後のことを語るときは表情が曇った。「本当にいろいろあった」。時折、遠くを見つめながら体験を教えてくれた。

 近藤さんは父・明(あきら)さん、母・静代(しずよ)さんの両親のもと、2男4女の6人きょうだいの5番目に生まれた。

 長姉と三番目の姉は生まれてすぐに亡くなり、実さんの双子の妹は親戚の家に養子に行った。長兄は大学で航空力学を学び、東京の研究室に学徒動員された。そのため、原爆投下前に一緒に暮らしていたきょうだいは近藤さんと二番目の姉だけだった。両親と祖父母を合わせて6人の家族が、今の自宅と同じ飽の浦3丁目(現・秋月町)に暮らしていた。

 近藤さんは飽の浦国民学校を卒業し、長崎市竹の久保町にあった県立瓊浦中学校に進んだ。中学2年生になると、授業はほとんどなく、茂里町の三菱長崎製鋼所に学徒動員されて、炉の掃除をする日々だった。

 原爆投下の10日ほど前、親戚が住んでいた三菱の社宅周辺が空襲を受けた。家を失った親戚の2家族が近藤さんの家に避難してきたという。平屋の一軒家に、多い時で20人以上が身を寄せていた。

 1945年8月9日。朝から空襲警報が発令されていた。近藤さんは学徒動員先だった茂里町の三菱長崎製鋼所には行かず、自宅で近所の友人と遊んでいた。

 午前11時ごろ、近所の人が叫んだ。「おい、飛行機の音がするぞ」。家の裏手にあった防空壕(ごう)に逃げようとしたとき、ドンという音と爆風が襲った。とっさに訓練していたとおりの防御姿勢をとり、目と耳を指で押さえて床に伏せた。「近くに爆弾が落ちた」と思った。家の中はあらゆる物が倒れ、めちゃめちゃになっていた。家の壁はそのままだったが、見上げると屋根が損壊して、空が見えていた。母静代さんをはじめ、家にいた家族にけがはなく無事だった。

 光は見えなかったが、山越しに見えた浦上方面に立ち上った雲は「異様な暗さだった」。すぐに頭をよぎったのは、爆心地に近い三菱長崎造船所の幸町工場で働いているはずの父・明さんの安否だった。静代さんはつぶやいた。「父ちゃんは駄目ばい」

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 明さんは三菱長崎造船所の幸…

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