羽田勝保さん(1920年生まれ)

 2015年6月。新聞をめくっていると、一枚のモノクロ写真が羽田(はねだ)ヤスエさん(84)=島原市=の目に入った。引き裂かれ、折れて重なり合う無数の木材。原爆で倒壊した長崎市竹の久保町の旧制県立瓊浦中学校(爆心地から800メートル)の木造校舎の残骸だ。

 あの日、原爆の犠牲になった次兄勝保(かつやす)さんの姿がよみがえる。瓊浦中の教師だった。

 夏になると、羽田さんは決まって思い出す。照りつける日差し。波の音。夏休みで故郷・島原に帰省した勝保さんと海水浴に行った記憶だ。

 松の木陰で本を読む着物姿の勝保さん。羽田さんは時々抱きかかえられ、海に放り投げられた。「あの光景は目に焼き付いています。うれしくて、いつもくっついて歩いてたんです」。自慢の兄だった。勝保さんが帰省すると、母は近所から卵をかき集めてもてなした。

 70年前のあの夏も、そんなにぎやかな夏になるはずだった。

 羽田さんが物心ついたころ、勝保さんはすでに島原の家にいなかった。

 勝保さんは広島市の広島高等師範学校で学び、英語などを教える教師として広島県の学校に勤務。その後、戦況の悪化に伴い長崎に戻った。そのとき選んだのが旧制県立瓊浦中学校だった。瓊浦中では当時、敵性語として避けられていた英語を教えることができた。英語教師の勝保さんはそこにひかれた。即決だった。

 「これ、英語でなんて言うの」。羽田さんもそんなことを勝保さんに聞いた覚えがある。鬼畜米英と教え込まれた時代。勝保さんはどんなことを感じながら、教壇に立っていたのだろうか、とヤスエさんは思う。

 70年前の夏のある日。何がきっかけだったか、羽田さんが空を見上げると、長崎市の方から暗くなっていくのが見えた。

 「そのときは、原爆なんてまったく知りませんでした」

 8月9日の空だった。

 原爆投下の数日後。羽田さんは…

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