被爆の記憶、つらすぎて語れなかった この夏は伝える

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核といのちを考える 被爆70年 願い(2)

 つらくて、悲しくて、どうしようもなかった。斉藤光弘(74)は偏見と差別に苦しみ、被爆のことを家族以外に話してこなかった。

 1945年8月9日、4歳の斉藤は長崎市内の自宅にいた。爆心からの距離は1・2キロだったが、原爆投下の瞬間は覚えていない。ただ、三菱の工場で働く父が全身にやけどを負って帰宅し、皮膚が異様な臭いを発しながら腐っていった記憶は脳裏に刻み込まれた。

 父は3日後に亡くなり、斉藤は母とともに長崎県内のある島へ。小学校で体にじんましんができた時、横になるために敷いてもらったむしろを教諭が「海へ捨ててこい」と吐き捨てた。25歳のときには、結婚を決めた女性の親に「原爆におうた人からは黒い子どもが生まれる。嫁にはやれん」と言われた。その後、島では何度も同じ目に遭った。

 31歳で島を離れ、福岡で妻と出会った。だが、被爆したことは言えなかった。妻が妊娠し、ようやく「長崎で被爆した」と打ち明けた。妻は長女を出産し、次女ともに健康に育った。それでも差別を恐れ、娘たちに「被爆者の子だとは話すな」ときつく求めた。

 今春、被爆者の今の思いを尋ねる朝日新聞のアンケートが自宅に届いた。「本当につらかった」「嫁に内緒で結婚した」――。気持ちに沿って答えを記したあと、取材を受けてもいいと思う人が名前を書く欄が目に入った。

 5年前に心臓の手術を受け、今年初めには心不全で入院していた。「最後の節目かもしれん」。家族以外に知られる不安は消えなかったが、名前と連絡先を書いて返送。何度もためらった末、娘2人に電話をかけた。「被爆のことを話そうと思うけど。どうね?」。2人は答えた。「思う通りにしたらいいよ」。斉藤の目から涙がこぼれた。

 娘の夫、その親戚、孫も自分が被爆者と知らない。斉藤は父の70回目の命日が巡ってくる12日、みんなに切りだそうと決めている。

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