(ナガサキノート)米軍と母国の間で 心が張り裂けそう

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上田輔・34歳
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川内豊さん(1930年生まれ)

 1945年8月10日、国鉄川棚駅(長崎県川棚町)。駅前の小さな広場に、大勢の大人たちが集まっていた。警防団や婦人会の大人たち。その雑踏の後ろに、川内豊(かわちゆたか)さん(85)はまぎれていた。

 町から何人もの出征兵士を送り出してきた広場だ。だが、その日は様子が違っていた。日の丸の小旗はなく、いつもより緊張感が漂っているようだった。

 「長崎から被害者が運ばれてくる」

 前夜、警防団の団員たちが父に知らせに来た。その会話を聞き、15歳の川内さんは好奇心を抑えきれなくなった。「新型爆弾の被害者ってどんなのだ」。駅は家から歩いて10分ほど。毎日、通学に使っていた。朝になると早速駆けつけた。

 昼前、大村方面から列車が着いた。機関車に、客車と貨車が長く連結されていた。「被害者」は貨車から降りてきた。息をのんだ。人間とは思えない人間がそこにいた。まるで、幽霊のようだった。

 川棚駅で「新型爆弾」の被害者を見る前の日、川内さんは川棚町と佐世保市の境にある白岳の中腹にいた。空襲から家財を避難させるために父が建てた小さな小屋があった。

 当時、川内さんは旧制大村中学校(現在の大村高校)の2年生。大村市にあった海軍の第21航空廠(こうくうしょう)に勤労動員されていた。東洋一とうたわれた広大な航空廠は前年の空襲で破壊され、川内さんは萱瀬地区に疎開した分工場に配置された。作っていたのは飛行機部品。長さ1メートルほどの金属パイプをたたきながら、中にぎっしりと砂を詰める作業だった。

 監督の上級生はすぐに叱った。何度も殴られたり、蹴られたりした。ついに作業に嫌気がさし、8月9日はさぼっていた。

 小屋からは大村湾が一望できた。昼前ごろ「腹が減ったな」と思った瞬間だった。湾の向こうに遠く、雷のような閃光(せんこう)が走った。しばらく遅れて「どろろーん」と爆音が聞こえた。白い雲がむくむくと立ち上がるのがはっきりと見えた。キノコのような形だった。

 何が起こったのか分からなかった。一緒に来ていた父と妹と「大きな火事でもあったのか」と話をしながら帰宅した。異変は夕方を過ぎて判明した。日が落ちると南の空を炎が焦がし、赤く染めているのが見えた。父に呼び出しがかかった。川内さんは広島への新型爆弾投下を伝える短い新聞記事を目にしていた。長崎に同じ爆弾が落ちたのか。

 長崎原爆戦災誌によると、救援列車は9日から運行され、長崎市内から諫早、大村などに負傷者を運んだ。川棚海軍共済病院の記録は第1便の川棚到着を10日午前2時半とする一方、町の歴史をまとめた「川棚物語」は9日午後4時ごろとし、判然としない。

 川内さんは10日朝から川棚駅に行き、かなりの時間待った、と記憶している。川内さんが遭遇した午前11時ごろの到着列車は、同誌には記述がない。同誌は「救援列車についてはまだ判(わか)らぬことが多い」とし、「今後の解明が待たれる」と指摘している。

 騒然とする8月10日の川棚駅に「被爆者」という言葉は、まだなかった。そこでは長崎から運ばれてきた人々を「被害者」、または単に「けが人」と呼んでいた。

 列車は構内の一番海側の線路に滑り込んだ。けが人は警防団員の肩を借りて降りてきた。「全部で50人くらいいたと思う」

 破れた服、黒く焦げた頭髪。肩や腕から焼けただれた皮膚が垂れ下がり、赤黒く乾いた中からさらに鮮血がしたたっていた。男女の区別もつかなかった。

 「恐ろしかった」と川内さんは言う。佐世保も大村も空襲で焼け野原になっていた。海軍工廠(こうしょう)や魚雷艇訓練所のある川棚も空襲の標的になっていた。焼夷(しょうい)弾によるやけどを負った人は、それまでにも見たことがあった。

 新型爆弾の被害者は、それとは全く違っていた。「戦争ってこういうことなのか」。恐怖と裏腹に逃げ出そうという気持ちは起きなかった。「助けてやらんば」の一念だった。

 救護活動の中心になったのは、川棚海軍共済病院(現在の長崎川棚医療センター)だった。250床の病院には負傷者を収容しきれず、2カ所の仮収容所が指定された。川棚町内の川棚工廠(こうしょう)工員養成所の講堂と常在寺だ。

 「手伝え」。警防団員に指示され、川内さんはけが人に肩を貸した。手ぬぐいやシャツを裂いて傷口を押さえた。

 工員養成所は白石郷にあった。現在の町営新町団地のある場所だ。駅から1キロほどの道のりを、けが人と救護者は2列になって歩いた。前日同様、その日も暑かった。靴を履いていない人もいた。けが人は衰弱しきっていた。「大丈夫ですか」と声をかけても、かすかに首を振るばかり。婦人会が準備した炊き出しのおにぎりなどを口にできる状態ではなかった。ただ「水を飲みたい」という言葉だけははっきりと耳に残っている。

 工員養成所は遠かった。「こんな重傷者を何で歩かせるのか。バスか何かで送ってあげればいいのに」と子供心に感じた。

 貨車から降りて無言で倒れ込む人がいた。途中で「もう歩けない」とうずくまる人もいた。担架が不足していたため、民家の雨戸を外して代用した。ずしりと重く、運ぶには少なくとも男4人の手が必要だった。工員養成所までの道のりで息を引き取る人もいた。

 工員養成所の講堂には、先着列車で運ばれたけが人がすでに大勢寝かされていた。川内さんは中に入れてもらえなかった。入り口に近づくと、「子どもは入るな」と追い返された。苦しそうなうめき声が中から聞こえてきた。のちに川内さんと結婚する和子(かずこ)さんは当時、川棚海軍共済病院の看護婦養成所で学んでおり、けが人の処置をした。次々と息絶え、一晩中「水をー」と叫ぶ人もいて、手が回らなかったと生前に語っていたという。

 長崎原爆戦災誌によると、川棚町には234人が救援列車で搬送され、73人が死亡した。川内さんは講堂外に白木の棺がいくつも並んでいたことを覚えている。シーツのような白布をかけられただけの遺体もあった。

 救護は8月10日だけでは終わらなかった。川内さんは連日、休む間を惜しんで負傷者のいる工員養成所に足を運んだ。その役割はけが人の搬送から、遺体の搬送に移っていた。その頃、白岳の中腹に火葬場があった。近くの地名から、川内さんは「大平(ううひら)の火葬場」と呼んでいた。工員養成所で託された棺を古いリヤカーに載せ、湿った細い山道を息を切らして登った。先頭でリヤカーを引く人、後ろから押す人と、1台につき数人がかりだった。7回は登ったという。

 当時、川棚では土葬が多かった。大平の火葬場は1人ずつしか遺体を焼けない小さな火葬場だった。そこに一度に多くの遺体が運ばれ、「渋滞」が起きていた。薪も底をついていた。順番を待つ遺体が、山道の所々に置かれていた。

 棺には「あ」「い」など目印のひらがなが書いてあった。「こんな暑い時期に何日も置いておいたらウジがわいてしまう」。道すがら、そんな会話をした。

 救護に明け暮れたまま8月15日になった。「ラジオで何かやるらしい」と聞き、家族と近所の家に向かった。ラジオのある家はまだ少なかった。

 大勢の人が集まっていた。すし詰めの中で正午、放送が始まった。音量を上げたラジオは「ガー、ガー」とひどい雑音を立てていた。天皇陛下の言葉は難しく、川内さんには意味を理解出来なかった。大人の中にも、聴き取れた人と、聴き取れなかった人がいたようだ。ラジオの近くから、聴き取れた人の声が聞こえてきた。

 「戦争が終わった。日本は負けた」

 その瞬間の息子のただならぬ表情を、母のタ子(たね)さんは見逃していなかった。「あんたあの時、顔色が真っ青に変わったよ」。晩年まで、そう何度も川内さんに言った。

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 してやられた。日本は勝って…

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