夏目漱石「それから」(第七十六回)十三の四
代助は三千代に平岡の近来の模様を尋ねて見た。三千代は例によって多くを語る事を好まなかった。しかし平岡の妻に対する仕打(しうち)が結婚当時と変っているのは明かであった。代助は夫婦が東京へ帰った当時既にそれを見抜いた。それから以後改まって両人(ふたり)の腹の中を聞いた事はないが、それが日ごとに好くない方に、速度を加えて進行しつつあるのは殆(ほと)んど争うべからざる事実と見えた。夫婦の間に、代助という第三者が点ぜられたがために、この疎隔(そかく)が起ったとすれば、代助はこの方面に向って、もっと注意深く働らいたかも知れなかった。けれども代助は自己の悟性に訴えて、そうは信ずる事が出来なかった。彼はこの結果の一部分を三千代の病気に帰(き)した。そうして、肉体上の関係が、夫の精神に反響を与えたものと断定した。またその一部分を子供の死亡に帰した。それから、他の一部分を平岡の遊蕩(ゆうとう)に帰した。また他の一部分を会社員としての平岡の失敗に帰した。最後に、残りの一部分を、平岡の放埒(ほうらつ)から生じた経済事状に帰した。凡(すべ)てを概括した上で、平岡は貰(もら)うべからざる人を貰い、三千代は嫁ぐべからざる人に嫁いだのだと解決した。代助は心の中(うち)で痛く自分が平岡の依頼に応じて、三千代を彼のために周旋した事を後悔した。けれども自分が三千代の心を動かすがために、平岡が妻(さい)から離れたとは、どうしても思い得なかった。
同時に代助の三千代に対する愛情は、この夫婦の現在の関係を、必須(ひっす)条件として募(つの)りつつある事もまた一方では否(いな)み切れなかった。三千代が平岡に嫁ぐ前、代助と三千代の間柄は、どの位の程度まで進んでいたかは、しばらく措(お)くとしても、彼は現在の三千代には決して無頓着(むとんじゃく)でいる訳には行かなかった。彼は病気に冒された三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は小供を亡(な)くなした三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は夫の愛を失いつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。彼は生活難に苦しみつつある三千代をただの昔の三千代よりは気の毒に思った。但(ただ)し、代助はこの夫婦の間を、正面から永久に引き放そうと試みるほど大胆ではなかった。彼の愛はそう逆上してはいなかった。
三千代の眼(ま)のあたり…
【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら