(ナガサキノート)特別編:燃えた青い稲 被害物語る

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山本恭介・28歳
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徳之島の被爆者:4

 戦争当時、若い男性の多くは徴兵されたり、徴用されて働いたりした。徳之島で育った前田博司(まえだひろし)さん(88)は、尋常高等小学校を卒業してから父親が営む農業を手伝っていたが、働きながら、その後の人生は徴兵か徴用しかないと考えていた。

 徴用の知らせは1943年に届き、8月に長崎へ発った。三菱造船所立神工場に配属され、新戸町の寮で生活をした。九州各地から徴用された人が集まっていたと記憶する。

 前田さんは船の原図係を任され、図面を見て鋼材の加工方法を指示するのが仕事だった。だが、資材不足なのか、44年ごろから45年5月ごろまでは仕事がなく、防空壕(ごう)を掘るのが仕事になった。

 45年6月からは福岡に出張に出された。飛行機の部品造りが仕事になった。原爆が投下されたのは福岡にいる時だった。当初は一報を聞いて「大変だ」とは思ったが、毎日の仕事をして自分の生活をすることに精いっぱいで、それほど気にかけなかった。

 前田さんが出張先の福岡から長崎に戻ったのは終戦後の8月17日だった。長崎県内には写真撮影などが制限される要塞(ようさい)地帯があったためか、福岡に行くときに乗った汽車は窓が閉められ、外が見えなかったが、帰りは開け放たれていた。

 長与あたりから、まだ青い稲が燃えているのが見えた。ようやく、原爆の被害がいかに大きかったのかを知った。市中心部に近づくと、がれきの山になっているグラウンドなどが車窓から見え、被害の大きさを実感した。汽車を降りると5人くらいの遺体が並び、むしろがかけられていた。

 長崎造船所に戻ると、出征した社員が長崎に残した家族の安否を確認するよう指示された。だが、顔も知らない社員の親族をどうやって捜せばいいのかわからない。街の中は異臭が激しく、社員の家までたどり着けないことも多かった。21日まで捜したが、一人も見つけることができなかった。そのころ、上司から会社を辞めてもいいと言われた。

 前田さんは三菱長崎造船所を辞めて、45年11月に徳之島に向けて出発した。だが、鹿児島市で足止めされ、「3カ月間、ホームレスをした」という。米軍の進駐によって奄美大島への定期船が休止していたからだ。お金のある人は密航船で帰ることもできたが、前田さんには払えなかった。

 空き倉庫で寝泊まりを続け、電気もない生活。たまに土木関係の仕事をして、ためたお金で買い物に行った。「これで10日間は大丈夫だ」と思いながらも、「いつになったら徳之島に帰れるのか」と不安が頭をよぎった。

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 同じく足止めされている友人…

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