(ナガサキノート)特別編:「水おいしい」息絶えた人々

有料記事

山本恭介・28歳
[PR]

徳之島の被爆者:3

 鹿児島県・奄美群島の徳之島に住む早川憲銃郎(はやかわけんじゅうろう)さん(74)=天城町=は、祖父母が鹿児島県出身だったが、出稼ぎのため長崎に来ていた。1941年に長崎市丸尾町で生まれた。祖父母と母、妹らと暮らし、父の禅竜(ぜんりゅう)さんは徴兵されて内地にいた。祖父の八二(はちじ)さんは三菱造船所で働いていた。当時、女性は竹やりの訓練を地域でしていたが、祖母のイネさんは参加を拒否していた。戦地で子供を亡くし、当時としては珍しく、反戦の考えを持っていたという。

 丸尾町周辺では焼夷(しょうい)弾が落とされ、火の手が上がることがあった。終戦の数カ月前には下水道に避難していた。イネさんは「人間がもぐらのような生活をするようになったら負けだ」と何度も言っていた。母のツル子(こ)さんは「そんなこと言うな。非国民じゃ」と神経をとがらせた。「母は軍国主義の塊だった」と早川さんは振り返る。イネさんは地域でも理解されず、孤立していたという。

 戦火を逃れるため、4歳の頃、早川さんは長与町に疎開することになった。

 早川さんは長与町に疎開後、静かにのんびりと暮らしていた。長与川でウナギ釣りをするのが楽しみだった。丸尾町に住んでいた時には夜、山から照らされるサーチライトの光が家に入ってくることが気持ち悪かったが、それもなくなった。

 時折、サイレンが鳴って防空壕(ごう)に避難することがあり、早川さんも母のツル子さんに連れられて、たまに避難した。だが、祖母のイネさんは「畳の上で死ねばいい」と言って逃げなかった。イネさんは「戦(いくさ)は負けだ」と独り言を言っていた。米軍が日本の戦意を損なうようなビラをまくこともあった。早川さんはそれを拾い集めるのが好きで、家で「こんなに集めた」と見せると、ツル子さんは「こんなものを持ってくるな」と怒った。

 8月9日の午前中は家にいて、みそを造るときに使うもろぶたに妹を乗せて遊んでいた。暑かったので窓を開け、軒には脱穀した麦がつるされていた。ツル子さんとイネさんは、麦を臼でひいていた。

 原爆投下の直後、早川さんは爆で4メートルほど飛ばされ、柱に頭をぶつけて気を失った。

 母のテル子さんに頰をたたかれて気づくと、妹が横で泣いていた。テル子さんは「山の中腹で爆発があった」と話していた。

 軒下に下げていた麦は爆風で飛ばされ、床に散らばっていた。腹が減っていたので、床からつまんで食べていると、「食い意地が張っているなあ」と笑われた。

 祖父の八二さんは翌日、職場から歩いて長与町の家に戻って来たが、長崎市丸尾町の家で疎開せずに住んでいたテル子さんの姉は原爆で亡くなった。

 テル子さんの妹は三菱兵工場で働いていたが、行方が分からなくなった。家族の間では「もう駄目かもしれん」と話していた。だが、テル子さんの妹は地下壕(ごう)に書類を取りに行っていて、助かっていた。ようやく無事と分かったのは、原爆投下から3日もたった頃だった。

 原爆投下から10日ほどして、祖母のイネさんに連れられて近所の学校の体育館に行った。

 「水くれー、水くれー」

 叫び声が体育館に響いていた。水が入れられたやかんをイネさんに渡された。イネさんは「かわいそうやから、飲ませていいよ」と言った。

 ガーゼをぬらして、水を求める人たちの口元で絞っていった。けががひどく、目をそらしながらの作業だった。ウジ虫がわき、ムカムカするようなにおいが鼻をついた。「末期の負傷者の水係みたいなものだった」と早川さんは振り返る。水を飲ませると、多くの人が「あーおいしい」と言って息絶えたという。学校には2日間ほど通った。

ここから続き

 同じ頃、米兵が家を突然訪ね…

この記事は有料記事です。残り863文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら