(ナガサキノート)特別編:90歳、父慰霊へ550キロ

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山本恭介・28歳
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徳之島被爆者:1

 戦後8年間、鹿児島県・奄美群島は米軍統治下に置かれ、自由な移動は制限された。長崎から約550キロ離れた奄美群島の徳之島を訪ね、被爆者4人の体験を聞いた。被爆70年特別編として、ナガサキノート「徳之島の被爆者」を4回に分けて掲載します。

     ◇

 2009年8月9日、鹿児島県・奄美群島の徳之島に住む安本政代(やすもとまさよ)さん(90)は長崎市の平和祈念式典に参列していた。式典に訪れるたびに体の衰えを感じており、「今回が最後」という決意で臨んでいた。父の清三(せいぞう)さんを原爆で亡くした。その前日には、「やすらかにおねむりください」というメッセージを添えた千羽鶴を供え、最後の別れを告げた。清三さんに申し訳ない気持ちと、生まれ育った長崎への断ち切れない思いが残った。

 安本さんは長崎市生まれ。20歳のとき、三菱兵器製作所の一部が疎開していた日見トンネルで、魚雷の部品を検査する仕事をしていて被爆した。大きなけがはしなかったが、その日、清三さんは家に帰ってこなかった。

 清三さんが働いていたのは、爆心のほぼ真下の同市松山町にあった町工場。3日後に訪ねると、機械の間に黒く丸い塊がたくさん並んでいた。直感的に「頭蓋骨(ずがいこつ)だ」と思った。「父はこの中にいる。申し訳ないけど、帰るね」。そう思うしかなかった。今でも、この光景が頭から離れない。

 原爆投下から半年後、妹の啓子(けいこ)さん(故人)と、両親の故郷の徳之島に移り住んだ。戦後8年間、奄美群島は米軍統治下に置かれ、自由に長崎へ行くことができなかった。星空を眺めては、「父の眠る長崎でも同じ星が見えているのかなあ」と思いをはせた。

 安本さんの両親は徳之島で生まれた。父の清三さんは島の貧しい家庭に育ち、母のシゲさんと一緒に長崎に渡った。安本さんは長崎市で生まれ、シゲさんは安本さんが伊良林尋常小学校(現・伊良林小)6年生の時に亡くなった。長女だった安本さんは母の代わりに防災訓練など地域の行事に参加した。バケツ運びや、やりの訓練を大人の女性としたことを覚えている。

 16歳のときに三菱兵器茂里町工場で働き始め、工員が造った魚雷の部品を図面と照らして点検する仕事をした。工場には奄美などから女子挺身(ていしん)隊として動員されてきた人たちも働いていた。みな、もんぺに名札を付け、名前、本籍、血液型、現住所を書いた。安本さんの本籍は「鹿児島県大島郡」と書かれており、奄美出身の労働者に「あんた、どこの島ね」と何度も聞かれ、返事に困った。動員された人たちは、ねじ造りなどをしていた。現場で油だらけになりながらの作業で、大変そうだった。

 1945年、長崎での空襲が激しくなると、三菱兵器茂里町工場の一部は日見トンネルに移され、安本さんの仕事場も変わった。電球で照らされた薄暗いトンネルの奥が仕事場だった。

 8月9日、原爆投下の瞬間はトンネルの中で仕事中だった。強い風が吹き込み、電気が消え、トンネル内が、がやがやと騒がしくなった。工員の一人が外に出て、山に登って市内を見回して帰ってくると、声を上げた。「長崎は火の海だ」

 しばらくすると、上司に帰宅を許可され、長崎市矢の平の自宅に向かった。途中、けが人と何人もすれ違った。何が起きたのか、よく分からなかった。

 夕方ごろに家に着き、しばらくして妹の啓子さんが帰宅した。「よー帰ってきたね」と喜んだ。だが、松山町の町工場に仕事へ行っていた父の清三さんが帰ってこない。けが人が寝かされている防空壕(ごう)で、清三さんを待ちながら不安な夜を明かした。

 清三さんは原爆投下から2日たっても家に帰らなかった。3日目、安本さんは清三さんを捜しにタオルを首に下げ、水筒を持って長崎市松山町の工場に向かった。いたる所に煙が立ち、子の名前を叫ぶ母親を目にした。浦上川は死体の山だった。

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 松山町の工場の惨状に清三さ…

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