夏目漱石「それから」(第三十二回)六の六

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 平岡は酔うに従って、段々口が多くなって来た。この男はいくら酔っても、なかなか平生(へいぜい)を離れない事がある。かと思うと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽(えつらく)を帯びて来る。そうなると、普通の酒家(しゅか)以上に、能(よ)く弁ずる上に、時としては比較的真面目(まじめ)な問題を持ち出して、相手と議論を上下(しょうか)して楽し気に見える。代助はその昔し、麦酒(ビール)の壜(びん)を互(たがい)の間に并(なら)べて、よく平岡と戦った事を覚えている。代助に取って不思議とも思われるのは、平岡がこういう状態に陥った時が、一番平岡と議論がしやすいという自覚であった。また酒を呑(の)んで本音(ほんね)を吐(は)こうか、と平岡の方からよくいったものだ。今日(こんにち)の二人の境界(きょうがい)はその時分とは、大分(だいぶ)離れて来た。そうして、その離れて、近づく路(みち)を見出し悪(にく)い事実を、双方ともに腹の中で心得ている。東京へ着いた翌日(あくるひ)、三年ぶりで邂逅(かいこう)した二人は、その時既に、二人ともに何時(いつ)か互の傍(そば)を立退(たちの)いていたことを発見した。

 ところが今日は妙である。酒に親しめば親しむほど、平岡が昔の調子を出して来た。旨(うま)い局所へ酒が回って、刻下(こっか)の経済や、目前の生活や、またそれに伴う苦痛やら、不平やら、心の底の騒がしさやらを全然痲痺(まひ)してしまったように見える。平岡の談話は一躍して高い平面に飛び上がった。

 「僕は失敗したさ。けれども…

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