岡田将平・33歳
爆心地から400メートル足らずの至近距離で生活していた笹村球吾さん一家。これまで、球吾さんの妻子4人の犠牲を中心に伝えてきた。一家には、原爆をかいくぐった人もいる。まず、球吾さんの次男・久さんの体験を紹介しようと思う。
いったん被爆前にさかのぼる。1941年12月、太平洋戦争が始まった時、久さんは東京にいた。40年4月に東京物理学校(現・東京理科大)に入学した。だが、2年生の時に召集令状(赤紙)が届いた。
「万歳、万歳」と送り出され、兵役検査に臨むが、久さんは肺に影が写り、検査に落ちる。娘の明美さんは、「幸運とは思わなかった。かっこ悪くて」と後に久さんが述懐していたのを覚えている。久さんは「これが最初の命拾い」とも振り返っていた。
46年につくられた久さんの履歴書が残る。そこには、42年に東京物理学校を中退したと記されている。召集されたためなのかもしれない。
久さんは44年から三菱兵器大橋工場に勤めた。久さんは、ここでも「命拾いをした」と娘の明美さんに語っていた。
被爆当時、久さんは2階建ての建物の1階の給与課にいた。原爆が落ち、建物は崩れた。久さんは「もう出られないと思った」という。だが、隙間があった。「本当に小さな穴だった」。久さんはそこから抜け出た。
被爆50年の95年に国の募集に応じて、久さんが書いた手記が明美さんの手元にある。久さんは「あっという間に建物の倒壊下敷となり、数多い同僚が命を失ったのかと思うと、運、不運の恐ろしさを今更ながら感ぜざるを得ない」とつづっていた。
久さんは生前、体験をほとんど語らなかった。明美さんは今、父の思いを察する。「(同僚たちを)置き去りにしたことが、ずっと父を苦しめたのかもしれない。原爆を思い出すことは、その人たちを思い出してしまう。そこが一番の苦しみだったのかな」
明美さんが見せてくれた久さんの遺品がある。ゲートルだ。男性がひざ下に巻く脚絆(きゃはん)で、被爆当時につけていたものとみられる。1本約180センチ。ところどころに血がにじんだような痕がある。このゲートルにまつわる話がある。
手記によると、三菱兵器大橋工…