(ナガサキノート)特別編:爆心地そば、消えた笹村薬局
笹村さん一家:1
被爆70年特別編として、ナガサキノート「笹村さん一家」を6回に分けて掲載します。
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長崎市内を走る長崎電気軌道の路面電車で長崎駅前から北へ七つ目の浜口町電停。長崎原爆資料館のそばにあり、観光客らが乗り降りする姿がみられる。
原爆の爆心地から南へ400メートル弱。かつて、ここに薬局があった。その写真がある。自宅も兼ねていた木造の大きな構え。裏には三菱球場があり、薬局から先に商店などが並んでいた。
だが、1945年8月9日、原爆は薬局を跡形もなく焼いた。
薬局の主、笹村球吾(ささむらきゅうご)さん(1892~1985)は出かけていたが、自宅にいた妻と国民学校3年の三女は爆死。工場で働いていた長女と次女の命も奪われた。
私は、この近くに住み、電停のある交差点を毎日のように通る。2013年、長崎に転勤して以来、原爆のことを学び、球吾さんの名前を知った。自分が今暮らすこの地で何が起きたのか。それを伝えることは、記者として私ができることのように感じていた。
14年秋、球吾さんの孫の明美(あけみ)さん(59)と出会った。球吾さんらについて話を聞き、一家に残された被爆にまつわる様々な資料を確認させてもらうこともできた。薬局の写真もその一つだ。
笹村さん一家で、被爆当時を知る人はもういない。だが、資料や手記などからひもとくことはできる。「あの日」から今につながる一家の話を記録したい。
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長崎港の近く、大波止交差点のそばに老舗の薬局「藤村薬局本店」がある。
45年8月9日午前、球吾さんはこの薬局にいた。その日の朝は、三菱長崎製鋼所で女子挺身(ていしん)隊として働いていた長女和子さん、当時、純心高等女学校4年で三菱造船大橋部品工場に学徒動員で通っていた次女公子さんが出発するのを見送り、一人で大波止に出かけていた。
戦後、球吾さんも参加した長崎市山里浜口地区復元の会が、72年に山里浜口地区原爆戦災誌「爆心の丘にて」をまとめた。その中にある球吾さんの手記によると、浜口町で薬局を営んでいた球吾さんは、町の救護班長として、救護に必要な薬品などを求めて訪れたという。
藤村薬品(同市田中町)の100年史に、当時の記述がある。球吾さんは店を出て、自宅に戻るため、大波止の電停に向かった。だが、一足遅く、乗れなかったという。被爆したのは次の電車を待っているところだった。
「爆心の丘にて」によると、球吾さんが大波止で電車を待っていると、突然、爆音がし、光が襲った。道の両側の住宅は震え、空には黒い雲がもうもうと広がり、電車も止まった。笹村さんはぼうぜんとしたが、妻子の身を案じ、浜口町の自宅へ向かった。
球吾さんの足取りをたどろうと、14年11月のある日、午前11時2分、大波止から浜口町へと歩いてみた。まず、県庁の前を通る。球吾さんが通ってしばらくして、火災に襲われ、焼け落ちることになる。そして、後に救護所となった新興善国民学校(現在の長崎市立図書館)。長崎駅方面に進み、中町天主堂の前に出る。坂を上り下りして進む。
私が歩いていると、青空が見えた。そしてハッとした。球吾さんがめざす浦上方面は、すっかり黒い雲に覆われていただろう。爆心地の近くに自宅があった笹村さんは、その中心に向かって進んでいたことになる。どんなに不安だったろうか――。そう思うと、足が急に重くなった。
球吾さんは爆心地が近づくに…
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