夏目漱石「それから」(第十一回)三の二

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 代助の尤(もっと)も応(こた)えるのは親爺(おやじ)である。好(い)い年をして、若い妾(めかけ)を持っているが、それは構わない。代助からいうとむしろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限って、蓄妾(ちくしょう)の攻撃をするんだと考えている。親爺はまた大分(だいぶ)の八釜(やかま)し屋(や)である。子供のうちは心魂に徹して困却した事がある。しかし成人の今日(こんにち)では、それにも別段辟易(へきえき)する必要を認めない。ただ応えるのは、自分の青年時代と、代助の現今とを混同して、両方とも大した変りはないと信じている事である。それだから、自分の昔し世に処した時の心掛けでもって、代助も遣らなくっては、噓(うそ)だという論理になる。尤も代助の方では、何が噓ですかと聞き返した事がない。だから決して喧嘩(けんか)にはならない。代助は子供の頃(ころ)非常な肝癪持(かんしゃくもち)で、十八、九の時分(じぶん)親爺と組打(くみうち)をした事が一、二返ある位だが、成長して学校を卒業して、しばらくすると、この肝癪がぱたりとやんでしまった。それから以後ついぞ怒(おこ)った試しがない。親爺はこれを自分の薫育(くんいく)の効果と信じてひそかに誇っている。

 実際をいうと親爺のいわゆる薫育は、この父子(ふし)の間に纏綿(てんめん)する暖かい情味を次第に冷却せしめただけである。少なくとも代助はそう思っている。ところが親爺の腹のなかでは、それが全く反対(あべこべ)に解釈されてしまった。何をしようと血肉の親子である。子が親に対する天賦(てんぷ)の情合(じょうあい)が、子を取扱う方法の如何(いかん)によって変るはずがない。教育のため、少しの無理はしようとも、その結果は決して骨肉の恩愛に影響を及ぼすものではない。儒教(じゅきょう)の感化を受けた親爺は、固くこう信じていた。自分が代助に存在を与えたという単純な事実が、あらゆる不快苦痛に対して、永久愛情の保証になると考えた親爺は、その信念をもって、ぐんぐん押して行った。そうして自分に冷淡な一個の息子を作り上げた。尤も代助の卒業前後からはその待遇法も大分変って来て、ある点からいえば、驚ろくほど寛大になった所もある。しかしそれは代助が生れ落ちるや否(いな)や、この親爺が代助に向って作ったプログラムの一部分の遂行に過ぎないので、代助の心意の変移を見抜いた適宜の処置ではなかったのである。自分の教育が代助に及ぼした悪結果に至っては、今に至って全く気が付かずにいる。

 親爺は戦争に出たのを頗(す…

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