夏目漱石「それから」(第六回)二の二

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 代助と平岡とは中学時代からの知(し)り合(あい)で、殊に学校を卒業して後、一年間というものは、殆(ほと)んど兄弟のように親しく往来した。その時分は互(たがい)に凡(すべ)てを打ち明けて、互に力になり合うようなことをいうのが、互に娯楽の尤(もっと)もなるものであった。この娯楽が変じて実行となった事も少なくないので、彼らは双互のために口にした凡ての言葉には、娯楽どころか、常に一種の犠牲を含んでいると確信していた。そうしてその犠牲を即座に払えば、娯楽の性質が、忽然(こつぜん)苦痛に変ずるものであるという陳腐な事実にさえ気が付かずにいた。一年の後(のち)平岡は結婚した。同時に、自分の勤めている銀行の、京坂(けいはん)地方のある支店詰(づめ)になった。代助は、出立(しゅったつ)の当時、新夫婦を新橋の停車場(ステーション)に送って、愉快そうに、直(じき)帰って来給えと平岡の手を握った。平岡は、仕方がない、当分辛抱するさと打遣(うっちゃ)るようにいったが、その眼鏡の裏には得意の色が羨(うらや)ましい位動いた。それを見た時、代助は急にこの友達を憎らしく思った。家(うち)へ帰って、一日部屋へ這入(はい)ったなり考え込んでいた。嫂(あによめ)を連れて音楽会へ行くはずのところを断わって、大いに嫂に気を揉(も)ました位である。

 平岡からは断えず音便(たより)があった。安着の端書(はがき)、向うで世帯を持った報知、それが済むと、支店勤務の模様、自己将来の希望、色々あった。手紙の来るたびに、代助は何時(いつ)も丁寧な返事を出した。不思議な事に、代助が返事を書くときは、何時でも一種の不安に襲われる。たまには我慢するのが厭(いや)になって、途中で返事をやめてしまう事がある。ただ平岡の方から、自分の過去の行為に対して、幾分か感謝の意を表して来る場合に限って、安々と筆が動いて、比較的なだらかな返事が書けた。

 そのうち段々手紙の遣り取り…

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