夏目漱石「それから」(第七十七回)十三の五

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 しばらく黙然(もくねん)として三千代の顔を見ているうちに、女の頰(ほお)から血の色が次第に退(しり)ぞいて行って、普通よりは眼に付くほど蒼白(あおしろ)くなった。その時代助は三千代と差向(さしむかい)で、より長く坐(すわ)っている事の危険に、始めて気が付いた。自然の情合(じょうあい)から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼らを駆(か)って、準縄(じゅんじょう)の埒(らつ)を踏み超えさせるのは、今二、三分の裡(うち)にあった。代助は固(もと)よりそれより先へ進んでも、なお素知(そし)らぬ顔で引返し得る、会話の方を心得ていた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女(なんにょ)の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆(ほうし)で、かつあまりに直線的に濃厚なのを平生(へいぜい)から怪(あやし)んでいた。原語で読めばとにかく、日本には訳し得ぬ趣味のものと考えていた。従って彼は自分と三千代との関係を発展させるために、舶来の台詞(せりふ)を用いる意志は毫(ごう)もなかった。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所(そこ)に、甲の位地から、知らぬ間(ま)に乙の位置に滑り込む危険が潜(ひそ)んでいた。代助は辛(かろ)うじて、今一歩という際(きわ)どい所で、踏み留(とど)まった。帰る時、三千代は玄関まで送って来て、

 「淋(さむ)しくっていけないから、また来て頂戴(ちょうだい)」といった。下女はまだ裏で張物をしていた。

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 表へ出た代助は、ふらふらと…

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