夏目漱石「三四郎」(第百回)十の七

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 三四郎はこの画家の話を甚(はなは)だ面白く感じた。とくに話だけ聴きに来たのならばなお幾倍の興味を添えたろうにと思った。三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話の上にもない、原口さんの画の上にもない。無論向(むこう)に立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、眼だけは遂(つい)に美禰子を離れなかった。彼の眼に映じた女の姿勢は、自然の経過を、尤(もっと)も美しい刹那(せつな)に、捕虜(とりこ)にして動けなくしたようである。変らない所に、永い慰藉(いしゃ)がある。しかるに原口さんが突然首を捩(ひね)って、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなった位である。移りやすい美(うつくし)さを、移さずに据えて置く手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞えたからである。

 なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。色光沢(いろつや)が好くない、眼尻に堪えがたい嬾(ものう)さが見える。三四郎はこの活人画(かつじんが)から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考え付いた。忽(たちま)ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲って来た。移り行く美を果敢(はか)なむという共通性の情緒はまるで影を潜(ひそ)めてしまった。――自分はそれほどの影響をこの女の上に有しておる。――三四郎はこの自覚のもとに一切(いっさい)の己(おの)れを意識した。けれどもその影響が自分に取って、利益か不利益かは未決の問題である。

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 その時原口さんが、とうとう…

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