夏目漱石「三四郎」(第九十八回)十の五

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 三四郎はこの機会を利用して、丸(まる)卓(テーブル)の側(わき)を離れて、美禰子の傍(そば)へ近寄った。美禰子は椅子の脊に、油気(あぶらけ)のない頭を、無雑作に持たせて、疲れた人の、身繕(みづくろい)に心なき放擲(なげやり)の姿である。明らさまに襦袢(じゅばん)の襟(えり)から咽喉頸(のどくび)が出ている。椅子には脱ぎ捨てた羽織(はおり)を掛けた。廂髪(ひさしがみ)の上に奇麗な裏が見える。

 三四郎は懐(ふところ)に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。――と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思い切って、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、一層近付いて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。

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 「里見さん」といった…

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