(ナガサキノート)折り重なる死体 心に焼きつく浦上川

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山本恭介・28歳
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河辺喜久子さん(1925年生まれ)

 河辺喜久子(かわべきくこ)さん(89)=長崎市手熊町=は今年7月、孫の香菜子(かなこ)さん(29)の車に乗せてもらい、浦上川にかかる橋の上に来た。原爆投下の数日後にここで見た少年の死体や、浦上川に積み重なっていた死体の山を思い出した。今でも忘れられない記憶だ。

 「死体の山だった浦上川や町並みが、こぎゃんきれいになった。でも、つらい気持ちと悲惨な光景はあの時のまま心に残っている」と河辺さんは川を見て言った。

 「どうか、安らかに眠ってください」

 強のなか、よろめきながらも手を合わせ、祈りを捧げた。河辺さんから被爆の体験を何度も聞いてきたという香菜子さんは、河辺さんの曲がった背中を支えた。

 毎年、8月が近くなると、香菜子さんやほかの家族に被爆体験を聞かせている。「原爆一発であのような惨劇を見ることになった。もう絶対戦争は駄目だから」と、話し続ける理由を説明する。記者にも、涙ぐみながら体験を語ってくれた。

 長崎で生まれた河辺さんは、1944年から家庭の事情で福田村(現・長崎市手熊町)の叔母の家で、両親と離れて生活していた。農業をしたり、いとこの面倒を見たりする日々を送っていた。

 45年7月、空からビラが降ってきた。「長崎よい国 花の国 七月八月灰の風」。米軍の宣伝ビラらしい。長崎市内には行ってはいかん、と近所の人たちが話していた。

 原爆投下の前日、叔母から、大橋町に用事があるから行くようにと頼まれたが、胸騒ぎがして断った。叔母から文句を言われたが、「あのまま行っていたら、いま生きていない」と振り返る。

 翌日、1歳になるいとこの女の子の世話をするため、玄関口で抱き上げた瞬間だった。爆心地の西約6キロ。畳が浮き上がり、ガラスが割れた。いとこを抱いたまま飛ばされ、3回ほど転がった。互いにけがはなかったが、全身がほこりで真っ白に。空を見上げると、原子雲が立ち上っていた。

 河辺さんが住む福田村では、近くで「空中爆弾」が落ちたという話題で持ちきりになった。長崎市内の被害がひどいと分かってきたのは、原爆投下から1時間ほど経ったころだろうか。市内に出かけていた村の人たちが、大けがをして帰ってきたからだった。

 40歳くらいの父親が、学生帽をかぶった男の子をおぶって現れた。父親は全身をやけどし、男の子は背中でぐったりしている。

 「水、水」という言う被爆者も多かった。近所の人たちは、水を飲ませると死ぬ、という話を信じ、飲ませなかったが、被爆者は次々と亡くなった。亡くなった人の家族は「どうせ死ぬこたなれば、飲ませればよかった」と悔やみ、泣いていた。

 高校生くらいの女の子は、髪の毛が灰色になっていた。「苦しかー、苦しかー」とうめき、母親に「代わりに死んでくれんね!」とすがった。やけどした部位にカボチャのすりつぶしたものを塗っていて、ハエがたかっていた。1週間ほどして、女の子は息絶えた。

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 8月11日、河辺さんは叔母…

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