夏目漱石「三四郎」(第三回)一の三

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 大きな行李(こり)は新橋まで預けてあるから心配はない。三四郎は手頃なズックの革鞄(かばん)と傘(かさ)だけ持って改札場(かいさつば)を出た。頭には高等学校の夏帽を被(かぶ)っている。しかし卒業したしるしに徽章(きしょう)だけは捥(も)ぎ取ってしまった。昼間見ると其処(そこ)だけ色が新しい。後(うしろ)から女が尾(つ)いて来る。三四郎はこの帽子に対して少々極(きま)りが悪かった。けれども尾いて来るのだから仕方がない。女の方では、この帽子を無論ただの汚(きた)ない帽子と思っている。

 九時半に着くべき汽車が四十分ほど後れたのだから、もう十時は過(まわ)っている。けれども暑い時分だから町はまだ宵(よい)の口(くち)のように賑(にぎ)やかだ。宿屋も眼の前に二、三軒ある。ただ三四郎にはちと立派過ぎるように思われた。そこで電気燈の点(つ)いている三階作りの前を澄(すま)して通り越して、ぶらぶら歩行(ある)いて行(いっ)た。無論不案内の土地だからどこへ出るか分らない。ただ暗い方へ行った。女は何ともいわずに尾いて来る。すると比較的淋(さび)しい横町の角から二軒目に御宿(おんやど)という看板が見えた。これは三四郎にも女にも相応な汚ない看板であった。三四郎はちょっと振返って、一口(ひとくち)女にどうですと相談したが、女は結構だというんで、思い切(きっ)てずっと這入った。上(あが)り口(くち)で二人(ふたり)連(づれ)ではないと断るはずのところを、いらっしゃい、――どうぞ御上(おあが)り――御案内――梅の四番などとのべつに喋舌(しゃべ)られたので、やむをえず無言のまま二人とも梅の四番へ通されてしまった。

 下女(げじょ)が茶を持って…

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