夏目漱石「こころ」 先生の遺書(九十七)

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 「その頃(ころ)は覚醒(かくせい)とか新らしい生活とかいう文字(もんじ)のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意(いちい)に新らしい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事の出来ないほど尊(たっ)とい過去があったからです。彼はそのために今日(こんにち)まで生きて来たといっても可(い)い位なのです。だからKが一直線に愛の目的物に向って猛進しないといって、決してその愛の生温(なまぬる)い事を証拠立てる訳には行きません。いくら熾烈(しれつ)な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留(とど)まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路(みち)を今まで通り歩かなければならなくなるのです。その上彼には現代人の有(も)たない強情(ごうじょう)と我慢がありました。私はこの双方の点において能(よ)く彼の心を見抜いていたつもりなのです。

 上野(うえの)から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜(よ)でした。私はKが室(へや)へ引き上げたあとを追い懸けて、彼の机の傍(そば)に坐(すわ)り込みました。そうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑そうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いていたでしょう、私の声にはたしかに得意の響(ひびき)があったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手を翳(かざ)した後(あと)、自分の室に帰りました。外(ほか)の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対して有っていたのです。

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 私はほどなく穏やかな眠(ね…

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