(ナガサキノート)生かされている命

有料記事

岡田将平・32歳
[PR]

神尾アイさん(1922年生まれ)

 「もう全部変わってしまった」。4月、長崎市平野町の長崎原爆資料館や国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の一帯を見て、同市の神尾(かみお)アイさん(91)はそうつぶやいた。

 この地は、戦時中の一時期、神尾さんが暮らしていた場所だ。神尾さんの親戚、相川宅十郎(あいかわたくじゅうろう)さん一家の屋敷があり、そこに住んでいた。隣には同じく親戚だった当時の岡田寿吉(おかだじゅきち)市長の家があった。

 1945年8月9日の被爆当時、神尾さんは夫の孝明(たかあき)さんとともに、同市滑石郷の実家に疎開していたが、相川さん宅、岡田市長宅は至近距離で被爆し、相川さん一家や岡田市長の妻子が犠牲となった。直後、神尾さんは孝明さんとともに、焼け野原と化した町に入り、相川さん宅、岡田市長宅の後片付けをしたという。

 体験を聞かせてほしいと神尾さんの元を訪ねた。「もう何も覚えていないんですよ」と神尾さんは語りつつ、少しずつ記憶をたどってくれた。

 神尾さんが、手元に残る1枚の古い写真を見せてくれた。1942年6月22日に撮影された写真。滑石郷の実家の畑が宮中に作物を納める「献穀田」となり、その行事として農作業をした時のものだ。

 その日、市役所に勤めていたおじと一緒に当時の岡田寿吉市長が来ていた。そこで市長の目に留まったらしい。市長の妻の弟だった孝明さんと見合いをすることになった。「見合いといっても、畑で会ったくらい」

 神尾さん夫妻は現在、被爆クスノキや一本柱鳥居が残る坂本町の山王神社で結婚式を挙げ、浜口町(現・平野町)の親戚、相川宅十郎さんの屋敷で暮らし始めた。隣家には岡田市長が住んでいた。一帯は現在と同じように住宅地だったが、屋敷の前には畑もあったという。神尾さんは、相川さんの妻や姉のように接していた相川さんの娘と主に過ごした。その後、神尾さん夫妻は城山町へ転居。戦況が悪化すると、さらに滑石郷の実家に疎開することになる。

 「まだ帰ってこんやろか……」

 45年8月10日。疎開先の長崎市滑石郷の実家にいた神尾さんは原爆投下後、まだ戻って来ない孝明さんを待ち、外ばかり眺めていた。居ても立ってもいられず、外に出ていた午後、孝明さんが家に向かって歩いて来るのが見えた。ホッとした。

 孝明さんは被爆当時、磨屋国民学校(現・市立諏訪小学校)の教師だった。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に収められている孝明さんの手記によると、孝明さんは校庭で上半身裸で防空壕(ごう)を掘っていた際に被爆。左腕の皮がはげたという。神尾さんは「帰って来てくれて、幸せ」と話す。

ここから続き

 神尾さんは原爆投下時、実家…

この記事は有料記事です。残り902文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら