(ナガサキノート)原爆稲、永遠に植え継ぎたい

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伊東聖・43歳
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松本隆さん(1935年生まれ)

 たばこの配給日だった。国民学校5年生だった松本隆さん(79)=福岡市西区泉3丁目=は、長与村(現長与町)高田郷の自宅から、長与駅前の店へ向かった。たばこの受け取りは、夏休み中の松本さんの役割だった。

 1945年8月9日。暑い日だった。川沿いの道を歩いた。並ぶには少し早く、好きな蒸気機関車を見ようと、長与駅に入った。

 その瞬間、光った。濁ったような、くすんだような黄色い光。目に見える景色全体が、光で覆われた。「稲光とは違う異様な光。何が起きたかわからなかった」

 松本さんはとっさに伏せた。日頃の訓練で習っていたように、両手の親指で耳をふさぎ、他の指で目と鼻を覆った。「バシーッ」。何かがはじけたような、ものすごい爆発音がしたかと思うと、熱風が体の上を吹き抜けた。

 1分ほど経っただろうか。松本さんは起き上がり、駅の外に飛び出した。

 長与駅から飛び出た松本さんは、周りが暗いことに気付いた。空を見上げた。「何だ、これは」。晴れていたはずの空にあったのは、渦巻く雲。真っ黒に赤や白も混ざり、猛烈な勢いで渦巻いていた。爆心地から約3・5キロ離れていたが、ぐんぐん迫ってきて、覆い尽くされそうに感じた。「生まれて初めて死ぬかと思った」。この光景は、松本さんの脳裏に深く刻み込まれた。

 戦後、キノコ雲の写真は何枚も見た。だが、ほぼ真下から見て恐怖を感じたあの雲と、遠い上空から撮った写真では、あまりに違い、本当の恐ろしさが伝わらないと違和感を持っていた。

 あるとき、あの光景が脳裏からよみがえった。1991年6月。島原半島の雲仙・普賢岳で起きた火砕流だ。死者・行方不明者は43人に及んだ。テレビで、勢いを増しながら山を駆け下り、木々をのみ込んでいく映像を見て「迫ってくるような恐ろしさは、あのときの原子雲に似ている」と感じた。

 キノコ雲を見て恐怖に駆られた松本さんは、長与駅から高田郷の自宅まで無我夢中で走って帰った。どこをどう通ったのかも覚えていない。木造平屋建てだった自宅は、柱と屋根だけになっていた。雨戸や障子は全て吹き飛ばされていた。

 しばらくすると、長崎市内から、続々と人が避難してきた。服はぼろぼろに破れ、肌は焼けただれ、足を引きずっていた。みな無言で、ひたすら遠くへ逃げようとしていた。

 米軍の艦載機が盛んに飛んできて、超低空で旋回を繰り返した。普段なら、みんなクモの子を散らすように逃げたが、この日は誰も逃げず、ぼうぜんとして避難を続けていた。「原爆のショックが大きすぎたのだろう」

 3、4日後、親戚の家を訪ねるため、市内へ向かった。あちこちに焼け焦げた遺体が転がっていた。3~4メートルの高さにあったコンクリート製のタンクには、爆風で吹き飛ばされたのか、1頭の馬の死体が引っかかり、垂れ下がっていた。

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 松本さんは6人きょうだいの…

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