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第3章 ヒトが止められるか
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第3章 ヒトが止められるか

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第3章 ヒトが止められるか

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 東日本大震災発生翌日の2011年3月12日午前4時45分ごろ、福島第一原発の1・2号機の運転員が詰める中央制御室に、ある装備品が届けられた。顔をすっぽり覆うマスクと、限度いっぱいの100ミリシーベルトの放射線量を浴びるまで作業が続けられるよう、80ミリシーベルトになるまで警報音がならないよう調整された「APD」すなわち警報付きポケット線量計だった。

——— この白いもやもやというのは、聞いたときに何だと。

吉田「蒸気だと思いました」

——— やはり、何かどこか漏れているんじゃないかというような認識だったんですかね。

吉田「はい」

——— その後、4時30分ごろなんですが、余震による津波の可能性から中央制御室の方に、現場操作の禁止が指示されると書いてあるんですが、これは、ようするに余震の影響というのもあったんですかね。

吉田「あります。この辺、ちょっとデータを覚えていませんけれども、震度5強とか6近い余震がこの晩、結構起こりましたので、その都度現場退避をかけていましたから、そういう状況での作業になります」

——— それで、これを見ますと、4時45分ころ、発電所対策本部より、100ミリシーベルトにセットしたAPDと全面マスクが中央制御室に届けられると。どうも決死隊じゃないですけれども、そういう方向に、このころ流れていっているということなんですね。この後なんですけれども、班編成を組んだり、2名1組の3班態勢ということで、これも誰が行くのかというところで、これを見ると、結局、上の当直長、副長という、その班のトップ、かなり年をとっているというと語弊がありますけれども、ようするに若い人よりも年をとっている人が優先的に班編成を組んで行かれているという状況なんですかね。

吉田「はい」

——— この辺の班編成をどうするとか、そこはもう当直の方に任せているわけですか。

吉田「任せています」

写真|2号機タービン建屋。原子炉建屋の放射性物質を取り除く装置につながるホースが延びる=2011年6月11日午前11時ごろ、福島第一原発、東京電力提供

 非常用復水器が停止していることが見逃され、長時間にわたり原子炉が冷却されていなかった1号機は、12日に入ったころにはすでに危機的な状況になっていた。
 午前2時30分、原子炉格納容器の圧力は最高使用圧力のほぼ2倍にあたる840キロパスカルに達した。これ以上になると壊れて、中の放射性物質を外界にばらまく恐れのある水準だ。

3号機の原子炉建屋の中がもやもやし、300ミリシーベルトを観測したとの報告

 格納容器からすでに分子の小さい水素や水蒸気が漏れ出しているのか、原子炉建屋の中は白いもやに覆われていた。圧力が限界近くまで上がっていることを示す現象だ。
 格納容器破壊を免れるには、中の気体を抜くベントを実行するしかない。ベントは通常なら、中央制御室に居ながらにして、ごく簡単な操作で実行できる。しかし、強い地震の揺れと津波に見舞われ、電源をすべて失ってしまった1号機においては、それは至難の業だった。
 ベントは、開け方の違う二つの弁を開けなければならない。二つの弁が開いた状態で、格納容器の圧力があらかじめ設定した水準に達したら「ラプチャーディスク」と呼ばれる円盤が破れ、実行される。
 二つの弁のうち「AO弁」と呼ばれる弁は、中央制御室からのスイッチ操作で電磁弁を開け、「アキュムレーター」すなわち蓄圧装置にためられた圧縮空気を弁に送り込み、弁を開ける。したがって、電磁弁を開ける電源が枯渇している現状では開かない。
 もう一方の「MO弁」と呼ばれる弁は、単純に電気モーターの力で開ける弁だから、これも電源が枯渇しているため、開かない。
 なんとかならないかと、壊れた事務本館から持ってきた図面などをもとに弁の構造を調べたところ、MO弁は1〜3号機すべてに手で回せば弁を開けられるハンドルがついていることがわかった。そして、AO弁も、1号機に限り「小弁」と呼ばれる予備弁の方には同様のハンドルが付いていることがわかった。これなら弁のところまで人が行けば開けられる。
 しかし、言うはやすし、行うは難しだった。

写真|2011年3月16日午後、福島第一原発3号機を自衛隊機に乗った東京電力社員が撮影した。白煙は水蒸気と見られ、その右側に見えるのが2号機の建屋=東電提供

——— できないというのは、何ができないんですか。

吉田「だから、さっき言いましたように、電源がないですね、それからアキュムレーターがないので、いろいろ工夫しているわけですね。その間に圧力を込めに行ったりとか、電源の復旧だとかやっているんだけれども、どれをやってもうまくいかないという情報しか入ってこない。最後の最後、手動でやるしかないという話で手動でいくんですが、手動でいって、ドライウェル側のMO弁というバルブは、結構重たいので被曝するんですけれども、これは何とか開けた、だけれども、ドライウェルのサプレッションチェンバーから出てくるライン、ここのバルブにアクセスしようとするんですが、線量があまりにも高過ぎてアプローチできないという状態で帰ってくるわけですね。そんな状態が続いているので、また、それをもう一度アキュムレーターから動かすのをチャレンジしろとか、やっとそのころにコンプレッサーの車が来たりとか、役に立ったりとか、そんな段階で道具もそろっていない中、いろいろやるんですけれども、なかなかうまくいかないということなんです」
 「ここが、今の議論の中で、みんなベントと言えば、すぐできると思っている人たちは、この我々の苦労が全然わかっておられない。ここはいら立たしいところはあるんですが、実態的には、もっと私よりも現場でやっていた人間の苦労の方がものすごく大変なんですけれども、本当にここで100に近い被曝をした人間もいますし」

写真|避難指示の出された地域からヘリで福島県立医科大に搬送された入院患者=2011年3月14日午後8時40分、福島市光が丘、中田徹撮影

 人が現場に行きさえすれば、ベントを実行するための弁が二つとも開けられるかも知れないことがわかった。
 しかし、余震は続いており、現場に近づくことは危険を伴った。本震がマグニチュード9.0と巨大地震だった東日本大震災は、3月11日と12日の2日間にマグニチュード7.0以上の余震が3回、6.0以上が48回、5.0以上は281回あり、実際、福島第一原発所長の吉田昌郎は、何度か退避命令を出した。それより何より、現場では毎時300ミリシーベルトもの高い放射線量が観測されていた。

—— 線量があまりにも高過ぎて

 中央制御室の運転員たちはそこで2人組の班を3班つくることにした。構成員6人は、若者でなく、運転員を束ねる年かさの当直長と副長から選ばれた。理由は熟練度だけでないことは明白だ。
 3班態勢としたのは、作業に小一時間かかるとみられたからだ。80ミリシーベルトを浴びたら作業を終えるようにしないと限度の100ミリを突破してしまう。そう考えると作業時間は16〜17分が限界で、1班態勢では作業を完遂できない。
 午前9時4分、第1班の2人がMO弁のある場所に向かった。重いハンドルを回しバルブを25パーセント開けた。
 続いて第2班の2人がAO弁の小弁を開けに出発した。が、そこへ行く途中で携行型放射線量計が鳴り出しやむなく引き返した。AO弁は原子炉格納容器下部の圧力抑制室の近くにあり、MO弁より場所的に厳しかった。
 第3班はそもそも行くのを断念した。ベント作業は振り出しに戻り、強力な空気圧縮機を放射線量の低いところでつなぎ込み、遠くから空気圧をかけて開ける方針に変更した。
 このやり方も、アキュムレーター自体か、圧縮空気を送り込む管が地震にやられていたのか難航し、東電がベントができたと判断できたのは、決死隊突入から5時間半後の、午後2時30分だった。
 高い値の放射線量や爆発の危機は、ありとあらゆる作業を阻み、事故収束作業を遅らせた。

写真|双葉病院の敷地内には入院患者を避難させるために使ったベッドがそのまま残っていた=2012年7月23日午前10時53分、福島県大熊町、朝日新聞社ヘリから

——— 11時1分に爆発を起こしてからの対応なんですけれども、いったんは作業は。

吉田「全部中止」

——— 現場から引き揚げるということになるわけですね。それから、次に再開をすることがどこかの時点でありますね。それはどういう情報が入ってきて、どういう判断で行こうと思ったんですか。

吉田「どういう情報が入ってきたというよりも、1号機のときと同じく、結局、爆発しているわけですから、注水ラインだとか、いろんなラインが死んでしまっている可能性が高いわけですね。1号機の注水、3号機の注水を実施していますし、それが止まっていると。それ以外のいろんな機器も壊れている可能性が高いわけですから、一通り確認して死亡者がいなかったことと、傷病者についてはJヴィレッジに送って手当てしてもらうということをした上で、そのときにみんなぼうぜんとしているのと、思考停止状態みたいになっているわけです」
 「そこで、全員集めて、こんな状態で作業を再開してこんな状態になって、私の判断が悪かった、申し訳ないという話をして、ただ、現時点で注水が今、止まっているだろうし、2号機の注水の準備をしないといけない、放っておくともっとひどい状態になる。もう一度現場に行って、ただ、現場はたぶん、がれきの山になっているはずだから、がれきの撤去と、がれきで線量が非常に高い。そこら辺も含めて、放射線をしっかり測って、がれきの撤去、必要最小限の注水のためのホースの取り換えだとか、注水の準備に即応してくれと頭を下げて頼んだんです」
 「そうしたら、本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです。勝手に行っても良くないと逆に抑えて、この班とこの班は何をやってくれ、土建屋はバックホーでがれきを片付けることをやってくれというのを決めて、段取りして出ていって、そのときですよ、ほとんどの人間は過剰被曝に近い被曝をして、ホースを取り替えたりとかですね」
 「やっとそれで間に合って、海水注入が16時30分に再開できたんですけれども、この陰には、線量の高いがれきを片付けたり、かなりの人間が現場に出ています。11時1分〜12時30分は何も書いていないのが腹立たしいし、この前に私がちゃんと退避をかけたのも書いていない。どういう時系列なのか、よくわからない」

写真|交代要員として福島第一原発に向かう東京消防庁のハイパーレスキュー部隊=2011年3月19日午前7時44分、茨城県守谷市の常磐道・守谷SA、竹谷俊之撮影

 交流電源を失った福島第一原発1〜3号機では、用意していた緊急炉心冷却システムがどれも動かず、消防車とホースを使って原子炉に水を入れ、核燃料を冷やしていた。
 3月14日午前の段階では、水源は3号機のすぐ海側の逆洗弁ピットと呼ばれるくぼみの水だった。消防車がその水を吸い上げ、ホースを使って1号機と3号機の送水口から原子炉に注入していた。
 午前11時30分からは、3号機への注水量を絞り、1号機への注水量を増やすという現場作業を予定していた。それが、午前11時1分に起きた3号機の爆発で、できなくなってしまった。現場から逃げるときにホースが破れているのを見たという作業員がいる、との報告も入った。

地図|吉田所長が指揮している免震重要棟と福島第一原発の位置

 福島第一原発所長の吉田昌郎は午後0時37分、2度の爆発で落ち込む所員に対し、「悪いけどよ、こんな時に悪いけどよ」と言い、所員に注水量変更、ホースの点検、水源としている逆洗弁ピットに降り積もったがれきの撤去作業に行くよう命じた。がれきはただのがれきではない。高い放射線を放つものも含まれていた。
 吉田はさらに午後2時13分、「特別にチームを編成して」という言い方で、高放射線がれきの片付けにあたる人員の増強を命じた。通信状態が悪いためか、先発隊からなかなか連絡が来ずあせっていた。ただ、片付けておかないと後の原子炉への注水に重大な支障を来すと考えた。
 「決死隊」という言葉は東電のテレビ会議録に、2011年3月14日夜までに限っても、2度記録されている。
 1度目は2011年3月13日午後3時49分のことだ。吉田は、2号機の海水注入ラインを再構築するため、所員に現場に戻るよう命令した。その検討にあたって、「じじいの決死隊で」と述べた。そのころ福島第一原発は、3号機の原子炉建屋の中で、1号機の水素爆発の直前にも見られた「もやもや」が発生しているのが確認され、屋外の作業員は免震重要棟に引き揚げていた。だが、どうしてもやらなければならない作業だとして、やむなく再び現場に向かわせた。

「じじいの決死隊で行こうかな」と話す吉田昌郎所長

 もう1回は3月14日午後6時10分のことだ。2号機の原子炉圧力容器の圧力を下げようと、中の蒸気を逃がすSR弁という弁を開けようとしたが、なかなか開かないときだった。弁を開けるのに必要な窒素ガスの圧力が弱っていることを疑い、所員が、高い放射線量の中、窒素ガスのボンベの交換に赴くとき、東電本店の担当者がこの言葉を使った。
 福島原発事故発生時、作業員の緊急時の被曝限度は100ミリシーベルトまでと定められていた。それが発生3日後の3月14日午後2時3分、原子力安全・保安院との調整で一気に250ミリシーベルトに引き上げられた。
 これを聞いた原子力担当副社長の武藤栄はおもわず「250ってのは相当に限界的な数字なので、しっかり守ることが大事だと思います」と応答した。
 政府による限度引き上げで、限度が近くなっていた作業員はもうしばらく現場作業を続けることが制度上は可能となった。生身の人間の放射線への耐性が上がったわけではない。作業員の健康リスクの増大と引き換えに事故の収束作業は続けられた。(文中敬称略)

決死隊が窒素タンクの交換に行っていると話す東電本店の担当者

第3章2節「叡智の慢心」に続く