東日本大震災発生3日後の2011年3月14日午後6時。福島第一原発2号機は、重大な危機にさらされていた。1号機、3号機でも手こずった原子炉格納容器のベントが、2号機では本当にどうやってもできなかった。原子炉の中心部である圧力容器の水蒸気を逃がす「SR弁」を人為的に開けて、圧力が下がったところで消防車で注水し原子炉を冷やす試みも、なかなかうまくいかなかった。
——— この後ぐらいに、要するに、SR弁がなかなか開かないというところから、夜に行くぐらいのころ、本店も含めてなのかどうかはともかく、実際の退避は2Fの方に行っていますけれども、退避なども検討しなければいけないのではないかみたいな話というのは出ていた?
吉田「出ています、というか、これは、あまりに大きい話になりますし、そこでうちの本店から言ってきたわけではなくて、円卓で言いますと、円卓がありますけれども、廊下にも協力企業だとかがいて、完全に燃料露出しているにもかかわらず、減圧もできない、水も入らないという状態が来ましたので、私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと思ったんです」
「これで2号機はこのまま水が入らないでメルトして、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出ていってしまう。そうすると、その分の放射能が全部外にまき散らされる最悪の事故ですから。チェルノブイリ級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう。そうすると、1号、3号の注水も停止しないといけない。これも遅かれ早かれこんな状態になる」
写真|福島第一原発1、2号機の防護管理ゲートの北側の風景。津波で破壊されたがれきが散らばっている=2011年3月23日、経済産業省原子力安全・保安院提供
2号機ではいったん13日に、格納容器から排気塔につながるベントライン上の弁を二つとも開け、いつでもベントできる状態にしていたのだが、14日午前11時1分の3号機の爆発で、うち一つが閉じて、開かなくなってしまった。
午後4時15分に原子力安全委員会委員長の班目春樹から直接電話があり、ベントができないなら原子炉圧力容器のSR弁をすぐに開けろと言われた。が、これも作業を始めてから1時間たったが開かなかった。
ベントの弁と同様、平素は簡単な操作で開くのだが、125ボルトの直流電源を供給するバッテリーが上がってしまったのか、うんともすんとも言わなかった。
福島第一原発では、所員の自家用車からはずしてきたり、福島県内のカー用品店で買ってきたりして、12ボルトの自動車用バッテリーをかき集めていた。東電本店や、新潟県の柏崎刈羽原発などほかの発電所からも送ってもらった。それらを10個直列につないで120ボルトのバッテリーにして装着してみたがうまくいかない。
——「ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと」
10個では電圧が定格より5ボルト足りないからと11個つなぎにすれば良いのではないか、いや、これは電圧でなく電流が足りないから120ボルトのバッテリーをもう1セットつくり、2セットを並列つなぎにしたほうがいいのではないか、と試行錯誤を繰り返したがなかなか開かなかった。
このままSR弁が開かないと圧力容器内の圧力は高止まりし、消防車の低いポンプ圧力では、いつまでたっても炉に水を注ぎ込むことができない。
早く水を入れて冷やさないと、炉はますます高温高圧になる。水が蒸発して水位が下がり、核燃料が水面から顔をのぞかせることになる。
核燃料は水からむき出しになると、そこから2時間で自らが発する高熱で溶け落ちる。いわゆるメルトダウンだ。さらに2時間で圧力容器の壁を溶かして穴を開けてしまう。メルトスルーと呼ばれる事態だ。
吉田が口にした「チャイナシンドローム」とは、アメリカの原発がメルトスルーし、高温でどろどろになった核燃料が格納容器をも突き破り、接するものを次々と溶かしながら、重力により地球の中心に向かい、さらに突き進んでちょうど地球の裏側の中国に到達するという仮想の話を主題にした、ジェーン・フォンダ主演の米映画の名前だ。
そこまでの惨事となるかどうかはともかく、打つ手がない以上、2号機はメルトスルーに向かっていく。格納容器が破られれば、プルトニウム、ウラニウム、アメリシウムなど猛毒の放射性物質が、生活環境に大量にばらまかれる。
その際には膨大な量の放射線が所員を一気に大量被曝させるであろう。吉田は、となると、1号機と3号機も原子炉の冷却作業ができなくなり、3機ともメルトスルーするという恐ろしい事態が起きてしまうと思い、ある行動に出た。
写真|福島第一原発1・2号機中央制御室の当直長席で、機器データを記録する作業員=2011年3月23日、原子力安全・保安院提供
吉田「そうなると、結局、ここから退避しないといけない。たくさん被害者が出てしまう。もちろん、放射能は、今の状態より、現段階よりも広範囲、高濃度で、まき散らす部分もありますけれども、まず、ここにいる人間が、ここというのは免震重要棟の近くにいる人間の命にかかわると思っていましたから、それについて、免震重要棟のあそこで言っていますと、みんなに恐怖感与えますから、電話で武藤に言ったのかな。一つは、こんな状態で、非常に危ないと。操作する人間だとか、復旧の人間は必要ミニマムで置いておくけれども、それらについては退避を考えた方がいいんではないかという話はした記憶があります」
「その状況については、細野さんに、退避するのかどうかは別にして、要するに、2号機については危機的状態だと。これで水が入らないと大変なことになってしまうという話はして、その場合は、現場の人間はミニマムにして退避ということを言ったと思います。それは電話で言いました。ここで言うと、たくさん聞いている人間がいますから、恐怖を呼びますから、わきに出て、電話でそんなことをやった記憶があります。ここは私が一番思い出したくないところです。はっきり言って」
ここで吉田がとった行動は、東電の首脳と、官邸にいる首相補佐官細野豪志に直接、2号機の惨状を伝え、所員の引き揚げを考える時期がきていると意見することだった。
テレビ会議システムを使うと、緊急時対策室にいる所員全員に聞かれるので、廊下に出て、携帯電話で密かに報告した。
退避命令に関しては、実は吉田は今回の福島原発事故の収束作業中、何度か発している。爆発や放射線被曝から所員を守らなければいけないと考えたときだ。
例えば3月14日朝に3号機の格納容器の圧力が急激に上昇したとき、吉田はテレビ会議システムを使って、「何もできなくなっちゃうんですけども、現場の作業員、うちの社員、一回こちらに退避させてよろしいですか」と了解を求めたうえで、退避命令を出している。
それが、今回の局面では、携帯電話で東電本店と官邸にこっそり伝えた。吉田の不安は極限にあったと言っていい。
写真|福島第一原発2号機の炉水位低下について記者会見で説明する経産省の西山英彦大臣官房審議官=2011年3月14日午後9時54分、東京・霞が関で、越田省吾撮影
——— それに対して、おふた方、武藤さんなり、本店側の人間に対して電話したときの向こうの反応はどうでした?
吉田「別にどうということではなくて、そういう状況かということなんです。それでOKだとか、そうではないとかいう話ではないんですけれども、私は、そういう危険があるよと、わかったと、そういう感じなんですね。私の行動としては、廊下にいた協力企業の方のところに行きまして、みんな、よくわからないでぼーっと見るなりしていますから、この人たちを巻き込むわけにいかないと思って、一生懸命やってきましたけれども、非常に大変な状況になってきて、みなさん、帰ってくださいと。退避とは言わないです。帰ってくださいと。帰っていただければというお話をして、あとはこっちに戻って来て、こっちも声なかったですよ。その時点で。あとは待つだけですから。水が入るかどうか、賭けみたいなものですから。それだけやったら、あとはほとんど発言しないで、寝ていました。寝ていたというか、茫然自失ですよね」
——— それは、SR弁がなかなか開かないとか。
吉田「開いたんです。開いたんですが、なかなか圧が下がらないところから、SR弁を開けるところはまだ操作ですから、何やっているんだ、どうなっているんだとなるんですけれども、SR弁が開いたにもかかわらず、圧が落ちない。そら、見たことかと。結局、サプチャンのほうが高いですからね。落ちないんではないかと。落ちないで、燃料がどんどん水位が下がっていっているなと」
「もう一つは、あまり時間がなかったものですから、ポンプが、消防車の燃料がなくなって、水を入れるというタイミングのときに、炉圧が下がったときに水が入らないと。そこでもまたがくっと来て、入れに行けという話をしていまして、これでもう私はだめだと思ったんですよ。私はここが一番死に時というかですね」
写真|原子炉格納容器の組み立てが進む東京電力福島第一原子力発電所2号機=1970年
午後6時、2号機のSR弁がようやく開き、しばらくして炉の圧力が下がり始めた。これで消防車による注水が可能になると所員は安堵の雰囲気に包まれた。が、喜びは束の間だった。
午後6時28分、こともあろうに、消防車が燃料切れを起こして注水できていないとの報告が入った。SR弁が1時間半の格闘の末にようやく開き、炉が減圧し始めたのに、これでは燃料の軽油を補給するまで炉に水は一滴も入らない。
所内には「最後これかい、って感じだなあ」との声が飛んだ。おまけに軽油を消防車への補給のため運ぼうとした小型タンクローリーがパンクで動けないとの情報も入った。
緊迫の度合いを深めた福島第一原発で吉田は、官邸と東電本店に2号機の状況を報告した後、下請けの協力会社の人たちに福島第一原発から離れるよう勧め始めた。
——「寝ていたというか、茫然自失ですよね」
東電本店も、福島第一原発の所員を福島第二原発に移動する手配を開始した。所員の数の確認をおこない、一度にバスで全員運べるかの計算も始めた。
午後7時40分、「東電のバスはですね、マイクロが20人乗りが2台、中型が1台、30人乗り」「そのほかに構内のバスが7台ありますが、運転手は何人いるか、ちょっといま確認中です」と報告された。
東電本店は、福島第二原発での受け入れ態勢づくりと、吉田が指揮を執る福島第一原発の緊急時対策室を、福島第二原発に移す作業も始めた。
午後8時17分、福島第二原発の所長、増田尚宏は次のように知らせてきた。
「2Fのほうは、えっと、1Fからの避難者のけが人は正門の脇のビジターズホールで全部受け入れます。そして、それ以外の方は全部、体育館に案内します」
「緊対を我々の2Fの4プラント緊対と、えっと、1Fから来た方が使える旧の緊対と、緊対を二つに分けて用意しておきますんで、そこだけ、本店側は、その両方の使い分けをしてください」
しかし、東電は結局、3月14日夜は福島第二原発行きを実行しなかった。
社長の清水正孝は午後8時20分に「あのう、現時点でまだ最終避難を決定しているわけではないということをまず確認してください。えー、それでいま、あのう、しかるべきところと確認作業を進めております」と発言している。その、しかるべきところとの調整がつかなかったのだ。
危機に立ち向かって原発事故を抑え込む、原子力災害抑止隊と呼べるような組織は存在しない。自衛隊は、国の平和と安全に重要な影響を与える事態や大規模な災害に対し、迅速かつ的確に対処し得るような即応態勢を維持、向上させているというが、関連機関との連携が前提で、自分たちは原発を制御する技術や知識を持っていない。
原子炉を制御して事故を収束にもっていける者は、電力会社員以外にはいない。だが、福島第一原発が起きる前も今も、彼らの行動をしばる規定はない。しばることの是非が声高に議論されたこともない。(文中敬称略)