「麻呂(まろ)」が「麿」に、「久米(くめ)」が「粂」に。このように2文字以上をくっつけて1文字にしたものを「合字(ごうじ)」と呼びます。
 「麿」や「粂」は国字つまり日本製の漢字ですが、もともと中国にある漢字を、日本で合字に見立てて使うことがあります。
 たとえば、「晃」1字で栃木県の「日光」を表すもの。江戸時代から日光山を「晃山(こうざん)」とも書いていたほか、誰かが日光に来ることを地元では「来晃(らいこう)」と言ったりしています。その字がもともと持っている字音を使って、漢語表現を作り出しているわけです。

■「日向」を1字で表す

 先日、社内で過去の作字記録を見ていたところ、「日の下に向」の「晑」という字が目に入りました。漢和辞典によれば、「キョウ」と読み、「あきらか」「あかるい」といった意味の字です。なるほど、日と向でアキラカとかアカルイというのはごく自然に思われます。それはよいのですが、筆者が気になったのは、この「晑」が使われた紙面の大半が宮崎版だった、ということでした。宮崎県といえば「日向(ひゅうが)の国」です。
 最近10年あまりの間に「晑」を作字した記録が5件残っており、うち4件が宮崎版の人名または組織名のためでした(一般市民の情報につながるため、ここで具体的に紹介するのは控えます)。ただ、そもそも全体の数が少ないため、「大半が宮崎」といっても単なる偶然かもしれません。

 しかし宮崎県の歴史をひもとくと、「晑」の字がしっかり登場しています。

 「平成の大合併」で2006年に宮崎市に編入された旧佐土原(さどわら)町には、明治の初め、「晑文黌(きょうぶんこう)」という私学校が設けられました。つくったのは旧佐土原藩主島津忠寛の三男、島津啓次郎です。1870(明治3)年から1876(同9)年まで、若くして米国へ留学。帰国後、故郷に戻って同志とともに「晑文黌」を立ち上げ、青年の教育に取り組みましたが、同じ頃起こった西南戦争で薩軍側に加わり、命を落としました。
 「晑文黌」の名称について、旧佐土原町が発行した「佐土原町史」(1982年)には、

 《黌は学校、晑はアキラカ、文をあきらかにし、真実をみきわめる学校とでも言うのであろうか、そして晑は日向にかけたのであろう》

 とあり、国名の「日向」を意識したものとの見方が示されています。
 また、島津啓次郎が率いて西南戦争に参加した佐土原隊は、その名を「晑義(きょうぎ)一番隊、晑義二番隊」と称していました。「晑文黌」と同じ字を使ったわけですが、やはり「日向」をアピールする意識があったのかもしれません。

 「晑」1字で「日向」を表した例は、明治時代の書物のタイトルにも見いだすことができます。1899(明治32)年3月に発行された「晑都(きょうと)案内記」(曽小川彦千代著)は、宮崎県内の旧跡名勝を紹介した本で、国立国会図書館のウェブサイトでデジタル画像が閲覧できます(「日向都案内記」で検索)。
 この本が出された年は「神武天皇御降誕二千六百二十年」にあたるとして宮崎宮(現・宮崎神宮)で「御降誕大祭」が挙行され、全国からの寄付によって社殿などの改修・拡張が数年がかりで行われました。「晑都案内記」の緒言には、大祭を機に日向を訪れる多くの人々の便宜をはかるため作った、という趣旨のことが記されています。
 この本には宮崎県内各地の名所が紹介されていることから、書名の「晑都」は「日向のなかのみやこ」ではなく、「古代日本のみやこであった日向」といった意味合いかと思われます。

 こうした過去の事例をみると、現代の新聞で宮崎版の人名などに他地域より多く「晑」が登場するのは、やはり「日向」の合字に見立てる意識が影響しているのではないか。そんなふうに思えます。

比留間 直和(ひるま・なおかず)

1969年生まれ。学生時代は中国文学を専攻。1993年に校閲記者として入社し、主に用字用語を担当。自社の表外漢字字体変更(2007年1月)にあたったほか、社外ではJIS漢字の策定・改正にも関わる。現在、朝日新聞メディアプロダクション用語担当デスク。